「三代実録」元慶四年(八八〇)一二月四日条、清和太上天皇の諸山巡歴の記事に「天皇寄事頭陀、意切経行、便欲歴覧名山仏、於是始自山城国貞観寺、至于大和国東大寺、香山、神野、比蘇、竜門、大滝、摂津国勝尾山、諸有名之処」とある勝尾山が文献上の初見。平安中期以降流布していたとされる当寺の縁起によると、神亀年中(七二四―七二九)善仲・善算という二聖者が金字大般若経書写の大願を立てここに入山修行をしていた。その後この二聖を師として受戒した皇子開成がその大願のあとを受け宝亀年間(七七〇―七八一)に写経の大功をなしとげたという。皇子はこれを般若台に奉納し、寺域の結界を定めて伽藍堂舎を建立し弥勒寺と称したのがその始まりと伝える。承平五年(九三五)二月五日の摂津国総持寺資財帳案(勝尾寺文書、以下明記しないかぎり同文書)に、総持寺の別院として「勝尾山寺壱処」がみえ、また総持寺には長保年中(九九九―一〇〇四)以後、比叡山の大僧正明豪の門徒が寺司に補任されていることから(天仁二年一〇月九日太政官牒案)、平安中期の勝尾寺は勝尾山寺とよばれ、総持寺に属する天台末寺であったとみられる。
摂関期から院政期にかけて民間の法華信仰や浄土信仰が盛んになり、多くの聖が諸国で活躍したが、勝尾寺も今様に「聖の住所はどこどこぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
大阪府箕面市粟生(あお)の山中にある真言宗の寺。山号は応頂山。本尊は十一面観音。西国三十三所第23番札所となっている。寺の縁起では奈良末の山林修行者善仲・善算および開成(かいじよう)皇子を開基とし,もと弥勒寺と称したという。880年(元慶4),清和太上天皇が〈摂津国勝尾山〉に巡幸したと《三代実録》にあるのが史料上の初見である。平安末,叡山浄土寺門跡に属する天台寺院で,十一面観音,薬師如来を本尊とした。源平争乱のとき源氏に焼打されたのを復興。1230年(寛喜2),寺領山林四至を確定して牓示の〈八天石蔵〉を築造し,その遺構は国の史跡に指定されている。付近の箕面の滝とともに北摂の紅葉の名所で,訪れる人が多い。当寺には寺宝の仏像・経巻等のほかに,約1200点の中世文書を主とする〈勝尾寺文書〉が所蔵され,寺領山林関係の公文書や寄進状,書状,寺院記録など,豊富な中世史料を伝えている。
執筆者:戸田 芳実
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
大阪府箕面(みのお)市粟生間谷(あおまだに)にある寺。俗に「かちおじ」ともいう。高野山真言宗に属し、応頂山菩提院(おうちょうざんぼだいいん)と号する。本尊は十一面千手観音(せんじゅかんのん)。西国三十三所第23番札所。奈良時代末、善仲・善算の兄弟が入山、765年(天平神護1)2人に師事した光仁(こうにん)天皇の皇子開成(かいじょう)が止住、のち堂宇を建立し弥勒寺(みろくじ)と称したのに始まる。清和(せいわ)天皇の病気平癒に効験あり、現寺名を賜った。中世には広大な寺域を領し、寺運盛んであったが、源平の乱で一山焼失した。
現在、源頼朝(よりとも)再建と伝える薬師堂ほか、近世に再建された本堂、大師堂などが並ぶ。また旧境内には中世に寺領の境界を標示するために寺の八方に築造された八天石蔵(はってんのいしぐら)(四天王、四大明王像を埋納)と町石が遺存し、国史跡に指定されている。寺宝の薬師三尊像、『法華経(ほけきょう)』第4巻は国の重要文化財。また勝尾寺文書を多数蔵する。
[金岡秀友]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新