豊竹 八重太夫(7代目)(読み)トヨタケ ヤエタユウ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 の解説

豊竹 八重太夫(7代目)
トヨタケ ヤエタユウ


職業
義太夫節太夫

別名
通称=萩野 辰治郎,初名=豊竹 津磨太夫,前名=豊竹 常盤太夫

生年月日
天保13年

出生地
大坂(大阪府)

経歴
義太夫節の浄瑠璃太夫。5代目豊竹八重太夫の門弟。安政末から出演を続け、慶応年間7代目八重太夫を襲名したという。その後淡州芝居を務めたが、大阪に帰って評判語り手となり、門弟育成に尽力した。

没年月日
明治42年 8月25日 (1909年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説

豊竹八重太夫 とよたけ-やえたゆう

?-1821 江戸時代中期-後期浄瑠璃(じょうるり)太夫。
大坂の人。義太夫節の初代豊竹磯太夫の弟子。3代豊竹八重太夫の養子(2代豊竹麓太夫(ふもとだゆう))から1代にかぎって名跡をゆるされ,八重太夫を名のったという。4代とする説もある。文政4年8月10日(一説に3日)死去。初名は豊竹八尾太夫。前名は2代豊竹磯太夫。通称は近江屋(おうみや)孫兵衛

豊竹八重太夫(2代) とよたけ-やえたゆう

1744-1793 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
延享元年生まれ。大坂の人。義太夫節の初代豊竹八重太夫(2代豊竹此太夫(このたゆう))の弟子。初名は豊竹八蘇太夫。宝暦12年大坂豊竹座で初舞台。明和2年2代を襲名。チャリ場(滑稽(こっけい)な場面)が得意だった。寛政5年10月29日死去。50歳。通称は和泉屋(いずみや)平兵衛。

豊竹八重太夫(5代) とよたけ-やえたゆう

1794-1859 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
寛政6年生まれ。大坂の人。義太夫節の4代豊竹八重太夫,3代竹本長門太夫(ながとだゆう)の弟子。豊竹小町太夫,粂太夫,2代橘太夫をへて5代を襲名。安政5年3代豊竹麓太夫(ふもとだゆう)をつぎ,櫓下(やぐらした)となる。安政6年1月16日死去。66歳。

豊竹八重太夫(6代) とよたけ-やえたゆう

?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
大坂の人。義太夫節の5代豊竹八重太夫,3代竹本長門太夫(ながとだゆう)にまなぶ。天保(てんぽう)12年(1841)豊竹八百太夫を名のり初舞台。3代磯太夫をへて,師の没後万延(1860-61)ごろ6代を襲名。通称は又吉

豊竹八重太夫(3代) とよたけ-やえたゆう

?-1795 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
大坂の人。義太夫節の2代豊竹八重太夫の養子。宝暦13年大坂豊竹座で初舞台。豊竹佐渡太夫,2代豊竹湊太夫(みなとだゆう)をへて寛政6年3代を襲名。寛政7年4月2日死去。通称は松阪屋伊(猪)八郎,湊橋

豊竹八重太夫(7代) とよたけ-やえたゆう

1842-1909 幕末-明治時代の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
天保(てんぽう)13年生まれ。大坂の人。義太夫節の5代豊竹八重太夫の弟子。豊竹津磨太夫,常磐太夫をへて慶応年間(1865-68)に7代を襲名。明治42年8月25日死去。68歳。本名は萩野辰治郎。

豊竹八重太夫(4代) とよたけ-やえたゆう

?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
義太夫節の初代豊竹麓太夫(ふもとだゆう)の弟子で,豊竹橘太夫を名のる。文政5年(1822)4代を襲名,大坂の各座に出演した。通称は有馬屋豊蔵。

豊竹八重太夫(初代) とよたけ-やえたゆう

豊竹此太夫(とよたけ-このたゆう)(2代)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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