出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
豊竹此太夫(2代)
没年:寛政8.10.4(1796.11.3)
生年:享保11(1726)
江戸中期の義太夫節の太夫。大坂堂島の生まれ。通称銭屋左吉。豊竹筑前少掾の門弟。初名豊竹八重太夫。時太夫と改め,宝暦7(1757)年に此太夫を襲名。明和には江戸に下るが,帰坂後北堀江市の側に人形浄瑠璃芝居を建て,座本となる。師の筑前少掾の面影をうつし,愁いの描出に巧みで,滑稽味・即興性のあるものもよかったといわれ,「染模様妹背門松」の「質店の段」,「紙子仕立両面鑑」の「大文字屋の段」,「摂州合邦辻」の「合邦庵室の段」,「桂川連理柵」の「帯屋の段」に特色を残し,今も伝承される。初代は豊竹筑前少掾の前名。
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豊竹此太夫(2代) とよたけ-このたゆう
1726-1796 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
享保(きょうほう)11年生まれ。大坂の人。義太夫節の豊竹筑前少掾(ちくぜんのしょうじょう)の弟子。豊竹八重太夫(初代),時太夫(初代)をへて宝暦7年2代を襲名。明和3年北堀江市(いち)の側(かわ)に操(あやつり)座をおこし,作者菅専助(せんすけ)とくんで翌年同地に,7年道頓堀に豊竹座を再興した。寛政8年10月4日死去。71歳。通称は銭屋佐吉。
豊竹此太夫(5代) とよたけ-このたゆう
?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
大坂の人。義太夫節の4代豊竹此太夫の門弟。豊竹岩太夫,2代吾太夫,5代時太夫をへて5代此太夫を襲名。天保(てんぽう)(1830-44)の末ごろに没し,此太夫の名はたえた。通称は藤吉。
豊竹此太夫(3代) とよたけ-このたゆう
?-? 江戸時代中期-後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
大坂の人。義太夫節の2代豊竹此太夫の門弟。前名は豊竹頼太夫で,寛政12年(1800)ごろ3代を襲名。文化(1804-18)のはじめごろに没したという。通称は大坂屋利右衛門。
豊竹此太夫(4代) とよたけ-このたゆう
?-? 江戸時代後期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
大坂の人。義太夫節の初代豊竹磯太夫の門弟。4代豊竹時太夫をへて,文政10年(1827)4代此太夫を襲名。天保(てんぽう)8年(1837)ごろ病没したという。通称は重太郎。
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豊竹此太夫(1世)
とよたけこのたゆう[いっせい]
[生]元禄13(1700)
[没]明和5(1768)
義太夫節の太夫。大入りのときは聞き取れないほど調子が低かったが,節細かく,憂いがきき,ときには派手な気分を表現,いまに伝わる語り風を確立して竹本座の大立物となった。寛延1 (1748) 年『忠臣蔵』のとき人形遣い吉田文三郎と衝突,豊竹座へ移って豊竹姓になり,翌年受領して豊竹筑前少掾となった。
豊竹此太夫(2世)
とよたけこのたゆう[にせい]
[生]享保11(1726)
[没]寛政8(1796)
義太夫節の太夫。通称銭屋佐吉。1世此太夫の門弟。八重太夫,時太夫を経て宝暦7 (1757) 年2世襲名。師の風をよく写し,次代をになった。
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世界大百科事典(旧版)内の豊竹此太夫の言及
【菅専助】より
…生没年未詳。医師の子に生まれたが,義太夫節を好み,2世豊竹此太夫の門に入って,豊竹光太夫を名のる太夫として出発した。1761年(宝暦11)には[豊竹座]で此太夫と同座,以後もほとんど此太夫と行動を共にしている。…
【染模様妹背門松】より
…作中,上の巻の〈油屋〉でお染に横恋慕する善六のおかしみ,下の巻の〈質店〉で土産の革足袋を用いた久作の懇篤な意見事,同じ巻の〈蔵前〉におけるお染・久松の愁嘆と太郎兵衛の情愛等々,見せ場,聞かせ場も多い。特に下の巻は初演の2世[豊竹此太夫]が好評を博し,その曲風が今日まで伝えられている。(2)歌舞伎狂言。…
※「豊竹此太夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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