日本大百科全書(ニッポニカ) 「AEG」の意味・わかりやすい解説
AEG
あーえーげー
AEG
1883年の発足以来、原子力発電所から機関車、変圧器、さらには各種家庭電気製品に至るまで、あらゆる電気機械を製造してきたドイツの名門企業。ジーメンス、オランダのフィリップスとともにヨーロッパ電機産業に君臨してきたが、1997年に親会社のダイムラー・ベンツ(現ダイムラー社)の大規模な事業構造の再構築に伴い一部門として吸収されるなどして、その長い歴史に幕を閉じた。法人格消滅以前の本社はフランクフルト・アム・マインに置かれていた。
1883年機械技師のエミール・ラーテナウ(1838―1915)がジーメンス‐ハルスケ社の支援を受けて、ドイツ・エジソン応用電気会社をベルリンに設立したときに始まる。その後、同社は生産した製品を販売するだけではなく、その販売先となる企業をも自ら設立し経営するという独自の経営方法によって急激に発展していった。1887年社名を「総合電機会社」を意味するAEG(Allgemeine Elektricitäts-Gesellschaftの略)と変更し、1894年にはジーメンス‐ハルスケ社から独立した。1913年にはジーメンスとともに、全ドイツ電機産業の8割を支配するまでになり、ここに世界的な巨大総合電機メーカーをつくりあげるという創業者の夢は実現されるところとなった。第一次世界大戦の最中の1915年、エミールは没し、息子ワルター・ラーテナウ(1867―1922)が48歳で第2代社長に就任する。ワルター・ラーテナウは、その後、政治家としても活躍し、第一次世界大戦後のワイマール共和国時代の外相ともなったが、1922年、暗殺者の凶弾に倒れ、その生涯を終えた。彼は、その生涯に経営民主化ないし経済民主化に関する多くの著作を残したことでも知られている。1923年には、AEGはドイツ国内・外に1838社の企業を支配し、その総資産は150億ライヒスマルクに達していた。
第二次世界大戦で同社も甚大な被害を受けたが、いち早く企業再建に取り組み、発電、電気化学、冶金(やきん)、家庭用電気機器等の製造・販売を開始し、同社の研究開発を重視する伝統を受け継ぎながら、その後順調に発展を遂げた。1966年には、通信機器製造メーカーで、ジーメンスとの合弁会社であったテレフンケン社を吸収するとともに、原子力発電から産業・自動化システム等、事業の多角的展開を積極的に推し進めていった。しかし、1974年に石油危機の直撃を受けて大幅な赤字を出して以来、傘下企業の株式の売却や人員の削減等、積極的にリストラに努めたが、その赤字体質を脱却することができず(その間、1978年には社名をAEG・テレフンケンと改称)、第二次石油危機後の西ドイツ経済を襲った深刻な不況の影響を受け、1982年に営業損益で9億マルクの赤字を出し、倒産の危機に瀕(ひん)した。同年、政府による6億マルクの輸出保証、取引銀行団24行による総額11億マルクに上る協調融資により再建が目ざされた。1985年、積極的な事業の多角化を展開していたダイムラー・ベンツに買収され、1986年には社名をふたたびAEGと改称した。その結果、純粋持株会社(株式所有を主たる事業とする)であるダイムラー・ベンツの下で、自動車部門のメルセデス・ベンツ、航空宇宙事業部門のDASA、サービス部門のダイムラー・ベンツ・インター・サービスとともに、その総合電機事業部門として傘下に組み込まれることとなった。しかし、1997年、ダイムラー・ベンツが大規模なリストラに踏み切り、それまでの純粋持株会社を事業持株会社(株式所有を主たる事業としない事業活動の比率の高い持株会社)へ転換するとともに、拡大の一途を遂げてきた多角化路線を見直し、本業である自動車事業の強化を目ざして事業の大規模な整理・再編に踏み切った結果、AEGは解体された(法人格の消滅)。システム・オートメーション部門はジーメンスに売却され、その他のエレクトロニクス、ディーゼルエンジン部門等はダイムラー・ベンツ本体に吸収され、その100年を超える企業の歴史に幕を閉じた。
[湯沢 威・風間信隆]
その後の動き
なお、1996年に家電事業部門はスウェーデンのエレクトロラックス社Electroluxに売却され、輸送ビジネス部門はABBダイムラー・ベンツ・トランスポーテーション・グループABB Daimler-Benz Transportation Group GmbH(アドトランツAdtranz)として再編された(後にカナダのボンバルディア社Bonbardier Inc.に売却)。また、AEGというブランド・ネームは2005年にエレクトロラックス社が買い取っているが、旧AEGのいくつかの部門が残存しており、これらもAEGをブランド名として使用している。
[編集部]