ラーテナウ
Emil Rathenau
生没年:1838-1915
企業家で,ドイツの総合電機メーカー,アーエーゲー(AEG)社の創立者。ドイツに白熱電灯と電話を導入した。ベルリンに商人の子として生まれた。ハノーファー工科学校とチューリヒ工科学校で機械工学を学び,とくに蒸気機関車製造を修業した。1876年にフィラデルフィア博覧会を見て電話に着目し,郵政長官の要請によりベルリンに電話局をつくった。81年のパリ電気博覧会でエジソンの白熱灯照明システムに強い印象を受け,エジソンからこれに関する特許ライセンスを得た。83年にはベルリンでドイツ・エジソン社を設立した。同社は電球を製造し,それ以外の電気機械器具はジーメンス社から仕入れることになっていた。ジーメンスは当初は白熱電灯に興味を示さず,そのためにライバル会社の成長を許してしまった。ドイツ・エジソン社はしだいにジーメンス社の束縛から脱し,87年にはアルゲマイネ・エレクトリチテート社(Allgemeine Elektricitäts-Gesellschaft。略称AEG,現,アーエーゲー・テレフンケン社)と改称した。ジーメンス社と異なり,ドイツ・エジソン社とAEG社は外部資本を利用して成長した。地方公共団体と共同出資して電力会社を設立し電気機器の販売を拡大し,電気鉄道の建設にも参加し,アルミニウム精錬・電気製鋼にも投資した。1884年にドイツ・エジソン社が建設したベルリン市電力は,ドイツで最初の公共電力網であった。91年のフランクフルト博覧会では,AEG社が中心となって三相交流による長距離送電デモンストレーションを成功させた。1903年にはジーメンス社と共同で無線通信工業を担当するテレフンケン社を設立した。ラーテナウは将来性のある重要な発明を識別する力があり,これらを工業化して成功した。AEG社は第2次大戦で大きな被害を受け,ジーメンス社に差をつけられている。
執筆者:高橋 雄造
ラーテナウ
Walther Rathenau
生没年:1867-1922
ドイツの実業家,政治家。1899年父E.ラーテナウの設立した電機コンツェルン,アーエーゲー(AEG)社の重役となり,1915年父の死後社長となる。第1次大戦前,中欧計画を作成し首相ベートマン・ホルウェークの戦争目的綱領に大きな影響を与えた。大戦勃発に際してプロイセン軍事省に戦時原料局を設立して1914-15年その局長となる。大戦後ドイツ民主党の設立に参加し,第2次社会化委員会や賠償会議で活躍したのち,21年5~11月復興相として,実物賠償に関するフランスとのウィースバーデン協定を締結。22年2月外相となって,西欧諸国に対しベルサイユ条約の〈履行政策〉により賠償問題の解決を図ったが,同時に4月ソ連とラパロ条約を結んだ。その政策とユダヤ人としての出自ゆえに極右集団にねらわれ,6月に暗殺された。理想主義的な文筆家としても一家をなし,革命とユンカー・重工業勢力に対抗して資本主義の組織化を唱えた〈共同経済〉構想などは有名である。
執筆者:栗原 優
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ラーテナウ(Walther Rathenau)
らーてなう
Walther Rathenau
(1867―1922)
ドイツの実業家、政治家。ドイツの電機工業界の中心的企業AEG(アーエーゲー)(アルゲマイネ電気会社)を創設したエミールを父とし、第一次世界大戦前からAEGや有力銀行の理事となり、1916年AEGを継承した。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)直後、戦時経済体制の確立を提唱し、戦時原料局を設置させ、その後も軍需経済の組織化に協力した。第一次世界大戦後、ドイツ民主党に属す一方、経済専門家として、講和交渉の準備にかかわり、1921年ウィルト内閣の復興相、1922年には外相となり、連合国側との賠償交渉に参加、革命ロシアとの国交回復を内容とするラパロ条約に調印した。賠償の履行によるベルサイユ条約の改定を唱え、さらにユダヤ系の出身であったことから、国粋派の攻撃の的となり、同年10月国粋派テロ組織に暗殺された。独特の時代批評や社会組織論でも高い評価を受けており、第二次世界大戦後、旧西ドイツで著作の全集が出版されている。
[木村靖二]
ラーテナウ(Emil Rathenau)
らーてなう
Emil Rathenau
(1838―1915)
ドイツの電気技術者、企業家。ハノーバー工科大学、チューリヒ工科大学で機械工学を学んだ。1876年フィラデルフィアでの万国博覧会で見た電話機に注目し、ベルリン当局に働きかけて電話局を開設。1878年のパリ万国博覧会にエジソンの白熱照明システムが出品されるとすぐにその特許権を得て、1883年ベルリンにドイツ・エジソン応用電気会社を設立。白熱電球の製造を開始する一方で、ジーメンス‐ハルスケ社(後のジーメンスAG)からその他の設備を購入し市内配電を始めた。1887年にはジーメンス‐ハルスケ社の束縛から離れ、AEG(アーエーゲー)(アルゲマイネ電気会社)をおこし、電気鉄道建設、電気製鋼などに投資した。
[高橋智子]
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ラーテナウ
Rathenau, Walther
[生]1867.9.29. ベルリン
[没]1922.6.24. ベルリン
ドイツの政治家,実業家。哲学,化学,技術などを学び,1899年父エミールの創立した電機会社 AEGに入社,1915年社長。第1次世界大戦が始ると,原料を確保するため陸軍省に戦時原料局が設けられ,その局長として E.ルーデンドルフ参謀次長とともに経済の戦時統制を指揮。戦後ドイツ民主党の創設に参加するかたわら,ベルサイユ条約や賠償問題に関する専門委員として国際会議に出席。 21年5~11月 K.ビルト内閣の復興相に就任,履行政策を首相に進言。 22年1月外相となり,ジェノバ会議に出席したが,西欧諸国との交渉が進展せず,会議中の4月 16日ソ連とラパロ条約を結んだため極右派の反感を買い,ユダヤ人であったことも災いして帰国後まもなく暗殺された。著書"Die neue Staat" (1919) 。
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ラーテナウ
Walther Rathenau
1867~1922
ドイツの実業家,政治家。父エミールの創設した大電機会社アー・エー・ゲー(AEG)の経営など,実業界で活躍,独特な「共同経済」構想で知られる。第一次世界大戦中,戦時経済組織化の中心的役割を演じ,戦後も社会化委員,復興大臣をへて1922年外相に就任,政界に重きをなしたが,同年,その「履行政策」を嫌う反革命派の凶弾に倒れた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
ラーテナウ
ドイツの実業家,政治家。父エミール・ラーテナウの創立した電機会社AEG(アーエーゲー)の経営など実業界で活躍。第1次大戦中は戦時経済の組織化を指導。戦後,独特な共同経済構想により,社会委員,復興相として活躍。外相としてラパロ条約締結を実現。右翼によって暗殺された。
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ラーテナウ
Walther Rathenau
1867〜1922
ドイツの実業家・政治家
アルゲマイネ電気会社(AEG)社長の子に生まれ,第一次世界大戦中,父のあとを継いで戦時経済の推進に尽力した。戦後,ヴァイマル(ワイマール)共和国の復興相・外相となり,ラパロ条約の締結など,経済・外交政策に手腕をみせたが,右翼に暗殺された。
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世界大百科事典(旧版)内のラーテナウの言及
【ラーテナウ】より
…ドイツの実業家,政治家。1899年父[E.ラーテナウ]の設立した電機コンツェルン,アーエーゲー(AEG)社の重役となり,1915年父の死後社長となる。第1次大戦前,中欧計画を作成し首相[ベートマン・ホルウェーク]の戦争目的綱領に大きな影響を与えた。…
【国家総動員】より
…イギリスでは政治家が国家総動員を推進したのにたいして,ドイツでは軍人が担当した。封鎖されやすいドイツでは,開戦直後に実業家W.ラーテナウの指導下に戦時原料局が設立され,大工業家や銀行家の協力を得て工業原料の統制を軌道にのせていたが,1916年8月にはヒンデンブルクを参謀総長とする最高統帥部による軍事独裁が成立し,ルーデンドルフが参謀次長兼兵站総監として実権をにぎり,国家総動員を推進した。W.グレーナー中将を長官に戦時庁がつくられ,軍需産業界に巨額の融資をおこなうとともに,労働組合指導者の協力をとりつけて男子労働力の全面動員をはかる祖国補助勤務法を実行に移した。…
【第1次世界大戦】より
…そのため各国とも大戦の進展する中で,国民の全体を総動員する体制を組織することを急いだ。たとえばドイツでは,重工業界の第一人者であったAEG社長W.ラーテナウが陸軍省に新設された戦時資源局の長官に就任し,原料の確保と軍需物資の徴発をはじめとする総力戦体制の確立のために尽力した。イギリスでは軍需生産の再編成に努めたD.ロイド・ジョージの功績が顕著で,1916年12月4日以後みずから首相となって戦争を指導したが,英仏両国では社会主義者も政府の一員に加わって総力戦に協力した。…
※「ラーテナウ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」