オーストラリアの小説家。ビクトリア州ジーロング近郊バッカス・マーシュ生まれ、10歳の時ジーロング・グラマーに転校。モナシュ大学理学専攻。作家モリス・ルーリー、バリー・オークリーらと、メルボルンの広告代理店のコピーライターとなる。2冊の短編集『歴史に現われた肥大漢』(1974)、『戦争犯罪』(1979)は、諸種定期文芸誌に随時発表した作品集。1980年度ニュー・サウス・ウェールズ州プレミア賞受賞。地元のみならず、イギリス、アメリカでも評判となる。小説では『至福(ブリス)』(1981)がマイルズ・フランクリン賞ほか2賞。続く『ペテン師(イリワッカー)』(1985)では、エイジ年間文学賞ほか3賞。『オスカーとルシンダ』(1988)には、1988年度ブッカー賞のほか地元でも4賞が与えられた。『税検査官』(1991)など長編のほかにも、1985年オーストラリア・フィルム協会賞を得た映画『ブリス』の共同製作者でもある。現実と超現実の交錯する寓意(ぐうい)性の強い作品群である。史実が綿密に計算されて仕組まれ、その的確さが現実味を印象づけるのだが、それは歴史への深い関心によるもので、父の影響である。
[古宇田敦子]
アメリカの経済学者。M・ケアリーの子。フィラデルフィアで初め出版業に従事したが、1835年に実業界から引退し、以後は経済学の研究に専心して多数の著作を著した。彼は父の保護主義の経済思想を継承・発展させた。初期にはほぼ古典学派の学説にとどまったが、後期の著作では古典派経済学を批判し、「アメリカ体制」の立場にたつ経済学を完成させることになった。主著の一つ『経済学原理』Principles of Political Economy全3巻(1837~40)では、価値論として再生産労働費用説を、分配論では資本家、労働者、地主の利益調和論を展開した。リカード地代論とマルサス人口論に対する批判は『過去、現在、未来』The Past, the Present, and the Future(1848)でいっそう展開されたが、彼の学説はやがて『社会科学の原理』The Principles of Social Science全3巻(1858~60)において、人間のもつ協力原理に基づきその最終的な体系化が図られた。
[田中敏弘]
イギリスの小説家。アイルランドに生まれる。エジンバラ大学やパリ遊学で絵画を学び、オックスフォード大学在学中カント、ブレークの著作に親しむ。1913年志願してバルカン戦争に従軍。のちアフリカのナイジェリア政庁に勤務。第一次世界大戦では同地の連隊に所属、参戦して負傷。1920年帰国して作家生活に入る。独自の道徳的・政治的観点にたち物語性の濃い作品を発表。初期の『救われたアイッサ』(1932)、『ミスター・ジョンソン』(1939)などはアフリカに舞台と主題をとる。『いとしいチャーリー』(1940)、『子どもたちの家』(1941)は幼少年期を扱う自伝的作品である。ほかに2編の三部作があり、その1、『自分でも意外』『巡礼となる』『馬の口から』(1941~1944)は、三枚絵の技法を用い、作者の人生観が3人の語り手を通じて示される。その2、『恩寵(おんちょう)の虜(とりこ)』『主にあらずば』『栄光は去りぬ』(1952~1955)は、政治家チェスター・ニモの生き方を主軸にした作品。
[佐野 晃]
アメリカの経済学者。H・C・ケアリーの父。アイルランドに生まれたが、1784年政治的理由からアメリカに亡命、フィラデルフィアに住んだ。ラ・ファイエットの保護によってジャーナリズムに入り、91年に出版業を始めた。1819年にフィラデルフィア国民産業促進協会を設立し、保護主義運動の推進に指導的役割を果たした。また当時、保護関税問題で政府と対立、アメリカに亡命中であったドイツの経済学者F・リストに援助を与えた。ケアリーは「アメリカ体制」促進の闘士として多くの小冊子を書いたが、主著『経済学論集』Essays on Political Economy(1822)において、アメリカ産業資本の発展の見地から、保護関税と、国内の諸階層の利益調和を目ざす国内改良計画とを強く主張した。
[田中敏弘]
イギリスの商人、経済学者。ブリストルで西インドとの砂糖貿易に携わったが、のちには重商主義を主張する経済時論家として有名になる。イギリスの国民的利益の保護の立場から、一方で、イギリス国内産業たる毛織物の消費を妨害し国民の就業の機会を奪うものとして東インド貿易によるキャラコの輸入に反対し、他方で、原料の供給地および製品の市場として植民地の確保を主張した。貧民のための授産場の建設を推進するなど、高賃金論者としても知られる。主著は『イギリス貿易論』An Essay on the State of England in Relation to its Trade, its Poor and its Taxes(1695)。
[千賀重義]
イギリスの小説家。ロンドンデリー生れ。パリで美術を学んだのち,1912年オックスフォード大学を卒業。志願して1912-13年のバルカン戦争に参加。13年イギリス領ナイジェリアの役人となり,ナイジェリア連隊の一員として第1次大戦に参加。20年イギリスに帰り作家修業を開始。アフリカ娘の改宗を扱った《救われたエイサ》(1932)をはじめ,ナイジェリアでの経験に基づく《アフリカの魔女》(1936),《ミスター・ジョンソン》(1939)などでしだいに認められる。〈イギリス人の目で見た過去60年のイギリスの歴史〉を扱った三部作《彼女も驚いた》(1941),《巡礼》(1942),《馬の口》(1944)で文名を確立した。作中人物の動きがはやく,性格描写や物語性を重んじる点で,デフォー,スモレット,ディケンズなどのイギリス小説の伝統に直結する。このほか《アフリカの自由》(1941),《大英帝国と西アフリカ》(1946),《芸術と現実》(1958)などの評論もある。
執筆者:鈴木 建三
イギリスの宮廷詩人。17世紀イギリスの詩的世界を二つに分けた流派,すなわちB.ジョンソン一派とJ.ダン一派のうち,前者に属し,また王党派詩人Cavalier lyristsを代表する一人であった。とはいうものの,ダンが死んだとき有名な《ジョン・ダン博士の死をいたむ哀歌》(1633)を世に問い,その思想内容においても措辞においても,形而上詩に対する深い理解と強い同質性を示している。力作の宮廷仮面劇《ブリタニアの空Coelum Britannicum》(1633)は,議会派やピューリタンたちの圧力に押されて後退を続けるチャールズ1世宮廷への,ひそかな挽歌となっている。ケアリーは,本来,小意気な恋愛小曲風の詩で宮廷にもてはやされていたが,1639年の司教戦争では病弱の身を押して国王軍に従い,まもなく没した。その悲しげにさめた詩風は,ピューリタン革命という嵐にゆらめく,宮廷文化の灯のはかなさであった。
執筆者:川崎 寿彦
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