日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
オーストラリア・ニュージーランド文学
おーすとらりあにゅーじーらんどぶんがく
オーストラリアとニュージーランドの文学。オーストラリア文学は、1788年イギリスの流刑地として植民されて以来、イギリスの植民地文学として発足した。二つの世界大戦を経て、自国で文学書などの出版が本格的になり、独自の文学の存在が認識されるようになった。また1950年代から1960年代にかけて、大学に自国の文学コースが置かれ、研究の対象となった。こうした経過をたどってイギリス文学からの離脱が顕著になっていった。オーストラリア文学は、その担い手が移民たちであり、離国者たちであった。一方ではヨーロッパ文化の南半球への拡大と定着を願望しながら、他方では自生の文化を促し、両文化の拮抗(きっこう)のなかで生み出されてきた文学であるといえる。入植から200年余、多文化主義がもたらす多様な差異がぶつかり合うなかから、豊かな自国の文学が醸成されていこうとしている。一方ニュージーランドは1840年、イギリス政府が先住民マオリの代表とワイタンギ条約を締結、イギリスの植民地として会社組織の移民により開発された。それゆえこの国では文学も、初期は「南半球のビクトリアニズム」とも評され、ビクトリア朝文学の亜流と目された。地域性に根ざした文学作品が生み出されていくようになったのは、第二次世界大戦後のことである。さらに1970年代になって、先住民マオリ作家の輩出をみ、しだいにマオリ文化を文学の原点にすえる認識も出てきた。太平洋国家としてのニュージーランド文学の方向性を暗示しているようである。
[古宇田敦子]
オーストラリア文学
植民地時代(1788~1880)
イギリス向けに書き送られた航海日誌や冒険記、オーストラリア特有の動物・植物を紹介した記録文学を別にすれば、イギリス文学の伝統は、「新大陸」の風土にはなじまなかった。移民の間では、母国イギリスやアイルランドの町や村で流行していたバラッド・民謡をいち早くこの地に適応させた。1796年、印刷技術が導入され、逐次定期刊行誌「ジャーナル」が発行され、以来文学はそのコラムに掲載されたのちに出版されることが多く、この伝統は20世紀なかばまで続いた。
最初に刊行された作品は、流刑囚マイケル・マッセイ・ロビンソンMichael Massey Robinson(1744―1826)の「ジョージ三世とイギリス女王誕生頌詩(しょうし)」(1810)で、小説は、流刑囚ヘンリー・セイバリーHenry Savery(1791―1842)の自叙伝風な『クィンタス・サービントン』(1830)である。ロマン詩の土台を築いたオーストラリア生まれの最初の詩人チャールズ・ハーパーCharles Harpur(1813―1868)の「オーストラリア・ブッシュの盛夏の月」(1858)は、言いまわしや風景の扱いに実にオーストラリア的な特徴が出ている詩の一編である。彼の詩に傾倒したのがヘンリー・ケンダルである。アダム・リンゼイ・ゴードンAdam Lindsey Gordon(1833―1870)は、『奥地民謡と駆け足リズムの詩』(1870)で奥地民謡の先駆者となった。
1850年代のゴールド・ラッシュは、金鉱掘り(ディガーズ)を英米から引き寄せ、人口の急増は奥地開拓をさらに促し、農牧業国の基礎が固まった。この時代を描いた小説は、囚人制度の残忍性を告発したマーカス・クラークMarcus Clarke(1846―1881)の『命あるかぎり』(1874)、ヘンリー・キングスリーHenry Kingsley(1830―1876)の『ジェフリー・ハムリンの回想』(1859)、ロルフ・ボルダーウッドRolf Boldrewood(1826―1915)の奥地および金鉱地帯での暮らしと冒険物語『武装盗賊団』(1882)など、いずれも移民作家たちの小説が人々を楽しませた。
[古宇田敦子]
国民主義時代(1880~1920)
このころ、植民地生まれの人口が初めて移民の人口を上回った。1880年、白人国家と国民主義を標榜(ひょうぼう)した週刊誌「奥地開拓者の聖書」(ブッシュマンズ・バイブル)ともいわれた『ブリティン』が創刊された。同誌は、連邦結成(1901)への強い指針を示し続けると同時に、その文芸欄「レッド・ページ」は、奥地開拓の苦闘のなかで理想化された奥地人や、彼らの仲間意識をテーマにし、特有のオーストラリア英語や文体で書かれた詩や短編小説を掲載して、自生の文学の興隆に強く寄与した。
「レッド・ページ」への寄稿者は「ブリティン派」といわれ、テーマや手法の伝統は、年刊の短編小説集『津々浦々』(コースト・トゥ・コースト)が発刊(1941~ )されても、なお受け継がれた。「家畜追いの妻」など300余編の短編小説を掲載し、国民的短編作家・詩人といわれたヘンリー・ローソンは、1896年『ビリーが湧(わ)く間に』を全集として出版した。国民の愛唱歌「ウォルチング・マチルダ」(1895)の作詞者A・B・パターソンは、ザ・バンジョーの筆名で奥地民謡「オーバーフロウ村のクランシー」(1889)を寄稿した。ローソンとパターソンは、当世きっての人気作家であり、ライバルでもあった。また、陰惨な奥地を、屈折した心理で描いたバーバラ・ベイントンBarbara Baynton(1857―1929)の『奥地調査』(1902)やスティール・ラッドSteel Rudd(1868―1935)の、のちに翻案劇や映画化もされた短編の一つ『わが開拓地で』(1899)なども愛読され続けた。
1901年連邦政府が成立した。「ブリティン派」のブッシュ・ナショナリズムの気風は、その後の作家たちにも引き継がれた。ローソンが序文を書いている『私の輝かしい経歴』(1901)は、マイルズ・フランクリンMiles Franklin(1879―1954)の処女小説だが、のちに『奥地で』(1928)に始まる開拓者家族の一連の物語で、この時期に多くみられた年代記小説の質を高めたと評された。フランクリンを生涯魅了したジョセフ・ファーフィの小説『これが人生というもの』(1903)は、植民地人気質を描いたものだが、古典と目された。
一方、17歳でドイツに渡り、イギリスで活躍したヘンリー・ハンデル・リチャードソンの小説は、ヨーロッパ文化に深くかかわるものであった。『モーリス・ゲスト』(1908)を手始めに、これも古典といわれている『身をたてるには』(1910)や、代表作三部作長編の『リチャード・マーニーの運命』(1917、1925、1929)を著した。リチャードソンは、その取材旅行で6週間帰豪した以外は終生オーストラリアに戻ることはなく、金鉱地バララットに移民した父の生涯をモデルに、移民にありがちな植民地社会への、ひいては人生への不適応を仮借なく描いた。
クリストファー・ジョン・ブレナンChristopher John Brennan(1870―1932)もヨーロッパの文化的体質から生まれた知性と象徴性に傾倒した詩人であった。象徴詩『詩・1913年』(1914)は当時正当に評価されなかったが、その普遍的な特質は、のちの小説家クリスティナ・ステッドやパトリック・ホワイト、ランドルフ・ストーらの文学の先駆となった。「ブリティン派」のブッシュ・ナショナリズムを地域偏重と批判して、文学の基準を国際性、普遍性で評価すべきとした1920年代におきた視点は、1950年代の文化的劣等(カルチャル・クリンジ)意識を中心に、文芸評論の争点となっている。バーナード・オダウドBernard O'Dowd(1866―1953)、ジョン・ショウ・ニールソンJohn Shaw Neilson(1872―1942)、ヒュー・マクレーHugh McCrae(1876―1958)は、テーマこそ違えこの時期を代表する詩人たちである。
[古宇田敦子]
二つの世界大戦の合間(1920~1930年代)
多くの非英語圏のヨーロッパ白人移民が流入し始めたこの時期、欧米の世界主義的な思潮が浸透して、興味の多様化がみられた。
キャサリン・S・プリチャードは、『ブラック・オパール』(1921)や『雄牛のように働くきこりたち』(1926)で、労働者たちの窮状を実地取材を通して写実的に描き、機械化されていく生活から土に根ざした生活への回帰をテーマにした。農牧生活を思い出させる作品には、バンス・パーマーVance Palmer(1885―1959)の『ハミルトンという男』(1928)や『水路』(1930)がある。初期、北部特別地域を舞台に『キャプリコーニア』(1938)を書いたザビア・ハーバートXavier Herbert(1901―1984)は、超長編小説『プア・フェロウ・マイ・カントリー』(1975)で、アボリジニーや少数民族の新しい人種関係を描いた。
詩では現代詩の幕開けを告げる詩と位置づけられているのが、イギリス近代主義を導入したケネス・スレッサーのタイトル詩「五つの鐘」(1939)である。小説家でも、画家でもある多才なノーマン・リンゼイNorman Lindsay(1879―1969)は、息子ジャックが創刊した定期雑誌『ビジョン』(1923)を通して、スレッサーら若手詩人たちに、半世紀以上にわたり大きな影響を与え続けた。4回しか続かなかったが、『ビジョン』は、詩のルネサンスを目ざした画期的刊行となった。R・D・フィッツジェラルドR.D.Fitzgerald(1902―1987)の初期の作品は、『ビジョン』が発表の場であった。
[古宇田敦子]
1950~1960年代以降
欧米の人権運動の潮流のなかでオーストラリア社会はかつてなく変容を迫られ、その変化が文学にも顕在化していった。
[古宇田敦子]
小説
長くイギリス、ヨーロッパに滞在していたホワイトが、1948年帰豪、永住した。初期には詩作や小劇場の脚本、短編などを手がけたが、1939年の『ハッピー・バレー』以降は、『伯母物語』(1948)、『人間の木』(1955)、『ボス』(1957)、『生体解剖者』(1970)、『トワイボン・アフェア』(1979)など、長編に比重を置くようになった。ホワイトにとって耐えがたいオーストラリアの文化的空白が、象徴的な表現を駆使して問い続けられた。ホワイトは1973年ノーベル文学賞を受賞した。マーティン・ボイドMartin Boyd(1893―1972)はメルボルンの富裕な開拓者一家の物語『モントフォート家』(1928)を書いたあと渡欧、1948年に帰豪した。「肉体的ルーツはオーストラリアでも、文化的・精神的ルーツはイギリスである」として、自己のアイデンティティ(帰属意識)をオーストラリアと欧米を対峙(たいじ)させて探ろうとした。これは、離国者の作家たちが追求するテーマでもある。ボイドは、1952年の『厚紙の王冠』を皮切りに、家系図小説『ラングトン家』(1955、1957、1962)ものの四部作で評判を得た。ステッドは1928年渡英以降41年間、イギリス、ヨーロッパ、アメリカに住み作品を書いた。初めての小説『ザルツブルグ物語』(1934)でその異才の片鱗(へんりん)をみせた。『シドニーの七人の貧しい男たち』(1934)は2作目である。1969年帰豪後、パトリック・ホワイト賞を受賞(1975)することで、初めてオーストラリア作家として認められた。1960年代に短編を書き始めた若手の作家たちのなかで、1980年代以降長編に転じ、寓意(ぐうい)性に富む前衛的な作品群で瞠目(どうもく)されたのは、マリー・ベイルの『ホームシックネス』(1980)、ピーター・ケアリーPeter Carey(1943― )の『至福(ブリス)』(1981)、『ペテン師(イリワッカー)』(1985)やブッカー賞受賞作『オスカーとルシンダ』(1988)などである。
短編では、ハル・ポーターの『鋳物模様の欄干があるバルコニーに立つ見張人』(1963)、アラン・マーシャルAlan Marshall(1902―1984)の『水たまりなんか平気』(1955)、フランク・ムアハウスFrank Moorhouse(1938― )の『アメリカ人だぜ、ベイビー』(1972)、マイケル・ワイルディングMichael Wilding(1942― )の短編集『サインを読む』(1984)などが、代表的な作品である。
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詩作
物語詩の形式を継承した叙情詩人ダグラス・スチュアートには、伝説の英雄ブッシュ・レンジャー『ネッド・ケリー』(1942)の詩劇や詩集『ラザフォード』(1962)など、多くの詩作がある。スチュアートは、1940年から1961年まで『ブリティン』の文芸欄を担当し、ジュディス・ライト、フランシス・ウェッブFrancis Webb(1925―1973)、デビッド・キャンベルDavid Campbell(1915―1979)らの初期の作品を掲載した。ライトは、1946年詩集『移ろうイメージ』、次いで『女対男』(1949)などを発表し、新しいオーストラリア詩の時代を特徴づけるものとして迎えられた。以来、詩、短編小説、児童書、文芸評論、編集など多岐にわたって活躍した。その視点は、入植した白人の母国との心の問題と、「オーストラリア大陸の自然との向き合い方」で、先住民アボリジニーへの関心と風景詩によって示されている。A・D・ホープ、キャンベル、スチュアート、ジェイムズ・マッコーレーらが、オーストラリア詩の一つの時代を画した。ほかにタスマニアの詩人グェン・ハーウッドGwen Harwood(1920―1995)やブルース・ドウBruce Dawe(1930― )の活躍も注目される。往年のこうした詩人たちを批判する形でスタートしたのが、レス・マリーLes Murray(1938―2019)ら若手詩人の「68年世代」(シックスティ・エイターズ)であるが、その後「68年世代」は内部対立を起こし、分裂した。
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移民文学
1970年代、多文化主義への政策転換によりアジア系移民を本格的に受け入れ、作品の担い手にも、テーマにも多様性が出てきた。ユダヤ系移民第一世代のジュダ・ワッテンJudah Waten(1911―1985)、モーリス・ルーリーMorris Lurie(1938―2014)、デビッド・マーティンDavid Martin(1915―1997)らは、おもに同化の問題をテーマにした。レバノン系移民3世のデビッド・マルーフDavid Malouf(1934― )は、体験を長編小説『ジョノ』(1975)に書いたのち、舞台を世界各地に移し、文学性を追求し、エスニック文学の枠を越えた。ヘレン・ガーナーHellen Garner(1942― )、周辺住民(フリンジ・ドウェラーズ)を扱ったエリザベス・ジョリーElizabeth Jolley(1923―2007)らの小説もよく読まれた。また、クリストファー・コッシュChristopher John Koch(1932―2013)の『危険に生きる年』(1978)、ブランシュ・ダルピュジェBlanche D'alpuget(1944― )の『タートル・ビーチ』(1981)などは、ジャーナリストとして、ジャカルタの政変に立ち会ったその経験や、ベトナムからの難民の取材をもとに書かれたものである。アジアへの関心が、経験と想像の視点からジャーナル、ルポルタージュ、小説等に書かれ、それらのなかから62編の抜粋がロビン・ギャスターRobin Gerster(1953― )編集・解説の『ホテル・アジア』(1995)に収められた。また、アジア系移民による作品や、性的なエスニックの視点の作品も読者を得、ロバート・デセックスRobert Dessaix(1944― )らの編集によるオックスフォード選集『オーストラリアのゲイとレズビアンの作品集』(1993)などが出版された。
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先住民の文学
先住民アボリジニーが市民権を得たのは1967年である。豊かな口伝の伝説・神話は、各部族によって異なり複雑を極めるが、英語に翻訳され、しだいにその伝統文化が理解されてきた。1929年、先住民出身のデビッド・ユナイポンDavid Unaipon(1872―1967)は英語で『部族の伝承物語』を出版、当時は 「未開の文学」と評された。30余年を経て1964年ウジュルー・ヌナクルOodgeroo Noonuccal(旧名、キャス・ウォーカー)の 「我らは死に絶える」という詩が、アボリジニーの意識を変革するきっかけとなった。この詩は、われわれはこのままでは滅亡するという現状と、その元凶となる白人社会に対して警告を与えるものであった。マドルールMudrooroo(コリン・ジョンソンColin Johnson、1938―2019)の処女作『山猫が落ちる』(1965)やジャック・デイビスJack Davis(1917―2000)の詩集『いずこへ?』(1970)などが、同化政策を鋭く批判した。サリー・モーガンSally Morgan(1951― )の『マイ・プレイス』(1987)は同化政策による親子別離で、失われた自分のルーツを探る小説である。アーチ・ウェラーArchie Weller(1957― )の小説『みじめな生活』(1981)では、伝統的な先住民族の生活が失われ、新しい生き方を模索するアボリジニーの若者の挫折(ざせつ)がテーマとなっている。各地先住民に伝わる神話や伝説も書き続けられている。1980年代、クィーンズランド出版シリーズで、A・シューメーカーAdam Shoemaker(1957― )は「1929~1988年までのアボリジナル文学」という副題で『ブラック・ワーズ ホワイト・ページ』(1989)を出版したが、ケビン・ギルバードKevin Gilberd(1933―1993)の『インサイド・ブラック・オーストラリア』(1988)、ウェラーらによる『我らアボリジニーの詩華集』(1987)は今日、アボリジニーの作品が質、量ともに確実に文学の各ジャンルに位置を占めたことを明らかにした。1990年代、『シリーズ オーストラリア黒人作家たち』が出版されたことは画期的なことであった。
[古宇田敦子]
ニュージーランド文学
ニュージーランド白人(パケハPakeha)の歴史は、1000年以上にも及ぶ先住民マオリの歴史の流れに続くもので、まだ200年に満たない。移民としての自覚、アイデンティティの模索が文学のテーマとなっている。とくに激しかった1860~1872年のマオリ戦争を経て、ようやく国情が落ち着いた。ニュージーランド人としての原点を、先住民マオリ文化への認識と受容へ向けるようになったのは1980年代以降のことである。
[古宇田敦子]
19世紀~20世紀初頭
開拓時代にはじめて出版された詩の本は、スコットランド移民ウイリアム・ゴルダーWilliam Golder(1810―1876)の『ニュージーランドの吟遊詩』(1852)であり、小説では、B・L・ファージョンBenjamin L. Farjion(1838―1903)の『雪上の人影:クリスマスの話』(1865)である。19世紀の作品でみるべきものは、フレデリック・E・マニングFrederick Maning(1811/1812―1883)の『昔のニュージーランド』(1863)で、一人のヨーロッパ白人が、マオリの文化に直面した体験を民族学的な記述でまとめたものである。ほかにサミュエル・バトラー『カンタベリー植民地の初年度』(1863)がある。詩人としては、アルフレッド・ドメットAlfred Domett(1811―1887)、ジョン・バーJohn Barr(1809―1889)らがいる。
国民主義時代といわれた20世紀初頭(1920~1950)は、『長い白い雲(アオ・テア・ロア)』(1898)の詩人で歴史家でもあるウイリアム・ペムバー・リーブスWilliam Pember Reeves(1857―1932)、ニュージーランド生まれの詩人『マオリの海から』(1908)のジェッシー・マッケイJessie Mackay(1864―1938)、『物乞(ものご)い』(1924)のR・A・K・メイソンR. A. K. Mason(1905―1971)、『対蹠(たいせき)地の庭園から』(1929)のアーサラ・ベセルUrsula Bethell(1874―1945)らが、南島クライストチャーチやオタゴを活動の拠点とした。ジェイムズ・K・バクスター、アレン・カーナウAllen Curnow(1911―2001)ら詩人たちは若手詩人のステッドChristian Karlson Stead(1932― )らに大きな影響を与えた。ステッドの詩は、ニュージーランドに目を向け、文化的ルーツの模索、世界からの地理的あるいは精神的孤立、精神性の貧困などをテーマとした。小説家では、『失われた大地』(1902)などのウイリアム・サッチェルWilliam Satchell(1860―1942)らがいるが、困難な国情では、文学が育つ精神風土はまだなかった。初期には、開拓者の生活や信条をテーマにした、主として短編や詩が表現しやすい型として書かれたが、小説はおろか、戯曲に至っては、第二次世界大戦後まで、本格的に書かれることはなかった。
[古宇田敦子]
第二次世界大戦後
手組み刷りのジャーナル『アリーナ』(1946~ )が随時出された。同誌は、1947年チャールズ・ブラッシュCharles Brasch(1909―1973)が『ランドフォール』(陸地初認)を創刊するまでは唯一の文芸雑誌で、大学で出版された雑誌とともに、作家志望の才能を世に送り出し、同時に、文学の指針ともなった。数年間であったが、文芸誌『テ・アオ・ホウ』はマオリの作品を掲載した。
1931年のウェストミンスター憲章によって、形式的にもイギリスから独立したニュージーランドは、1960年代以降、地域性に根ざした作品を本格的に生み出していった。ニュージーランドの3分の2の作品は、1965年以降に書かれたとされる。各種文学賞も設立された。それまでの男性作家中心の文学的伝統のなかに、女性、マオリ、移民の作家の作品がみられるようになった。
ところで、地元ニュージーランド生まれの住民が人口のほとんどを占めるようになった1880年代、ヨーロッパ系ニュージーランド人は、イギリスをなお「本国」と考えた。この意識環境は、ニュージーランド生まれの短編小説家キャサリン・マンスフィールドが、イギリスで教育を受け終生イギリスやヨーロッパで暮らし作家活動をする「移住」を余儀なくも容易にもした。移住は、植民地時代の文学者たちの共通した感覚でもあった。しかしマンスフィールドは、イギリスの短編作家としての名声にとどまらず、英米の多くの評論家、文学研究者たちをひきつけ、次々と出版された文芸批評や研究書にもかかわらず、生誕地ニュージーランドの作家と位置づけられたのは、死後半世紀以上を経てからであった。それは、マンスフィールドが、自らを「植民地の作家」とジャーナルに記していることにもよる。しかし、それ以上にニュージーランド作家としての彼女を広く知らしめたのは、政府が遺稿を落札、地元図書館に所蔵したことで、その大量の書簡、ジャーナル、ノートを基にした、地元作家・研究者たちの精神分析的な推論によって著されたマンスフィールドの伝記や評釈による新たなマンスフィールド像を通してであった。こうして、第二次世界大戦後のニュージーランドの短編はマンスフィールドがリードしたが、ほかに男性的、自然主義的なリアリズム文学の立役者で、『あの夏その他』(1946)で評価を得たフランク・サージソンの名をあげることができる。この流れのなかで、ジャネット・フレイム、モーリス・ダガンMaurice Duggan(1922―1974)、モーリス・ジーMaurice Gee(1931― )たちが、活躍することになる。
1970年代になると、詩、劇作、評論等で活躍してきたC・K・ステッド、レイチェル・マカルパインRachel McAlpine(1940― )、イアン・ウェディIan Wedde(1946― )、ビンセント・オサリバンVincent O'sullivan(1937― )らが小説を書き始めた。短編『先住者たち』(1978)の著者、モーリス・シャドボルトMaurice Shadbolt(1932―2004)は、K・マンスフィールド賞を受けた『帰郷』(1962)や『光の中の人々』(1964)を書いたが、その後、歴史小説に転じている。
このほかに、多様化の進んだ1970年代、ウィティ・イヒマエラWiti Ihimaera(1944― )の『タンギ(通夜)』(1973)や『女族長』『ポティキ』(1986)ほかを書いたパトリシア・グレイスPatricia Grace(1937― )、『カイハウ(風を食う人)』(1986)を書いたケリー・ヒュームKeri Hulme(1947―2021)らマオリの小説家が活躍した。また、マカルパインらは1975年までの女性運動にフェミニズムの主張を取り入れ、それを詩作することで表現した。
マオリ出身のヒュームは、短編『義手と触角』(1975)を書いた後、12年の歳月をかけ長編『ボーン・ピープル』(1985)を書いた。ボーン・ピープルとは、人骨を象徴的に扱う伝統文化をもつマオリ人を意味する。ほかにアラン・ダフAlan Duff(1950― )の小説『かつての戦士たち』(1990)は、ニューヨーク、ロンドンでも評判を得た。さらに、サージソンの社会派リアリズムの流れはシャドボルト『先住者たち』(1978)、オサリバン、ステッドに受け継がれた。また、モーリス・ジーの『プラム』(1978)、『メグ』(1981)、『ソール・サバイバー』(1983)の三部作も評価された作品である。このジーの三部作は、日記文学、詩、短編によって構成されているが、いずれもニュージーランド文学の伝統である形式をその構成に取り入れた大作である。
1980~1990年代にかけては、多くの詩選集が出た。
イヒマエラらによる共編、現代マオリ作家の詩華集『光のある世界へ』(1982)のなかでイヒマエラは、「ここ十年、注目され始めたマオリの若い世代に、マオリ固有の文化を再認識させるための選集」であると記している。
詩選集には、ほかにもウェディやハーベイ・マックイーンHarvey Mcqueen(1934― )編の『ペンギン版ニュージーランド韻文1985』、同じく『ペンギン版現代ニュージーランド詩』(1989)などが出版された。とくに、1980年代の『新しい詩人』、『マオリの詩』(1989)などの詩選集は、台頭してきた中産階級の意向を強く反映したものと評価された。それまで文学に対する認識は男性、白人知識層こそ、その担い手であるというものであった。これらの『詩選集』ののち、しばらくの沈黙の時期があったが、1997年『英語でのニュージーランド詩選集』が出版され、これは新しいニュージーランド詩の方向を示すものとして迎えられた。
[古宇田敦子]
『平松幹夫編・訳『オーストラリアの文学』(1982・サイマル出版会)』▽『ジェフリー・ダットン編、越智道雄訳『オーストラリア文学史』(1985・研究社出版)』▽『沢田敬人著『ウォルシングマチルダ――オーストラリア文化の旅』(1995・オセアニア出版社)』▽『James McAuleyA Map of Australian Verse(1975, OUP)』▽『Alexander CraigTwelve Poets 1950―1970(1976, The Jacaranda Press)』▽『Leonie kramerThe Oxford History of Australian Literature(1981, OUP)』▽『Jack Davis, Bob HodgeAboriginal Writing Today(1985, The Australian Institute of Aboriginal Studies)』▽『Australian Literary Studies(special issue)Vol.13,No.4(October 1988, QUP)』▽『Terry SturmThe Oxford History of New Zealand Literature(1998, OUP)』