日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラ・ファイエット」の意味・わかりやすい解説
ラ・ファイエット
らふぁいえっと
marquis de La Fayette, Marie Joseph Motier
(1757―1834)
フランス革命期の政治家、軍人。オート・ロアール県のシャパニックの侯爵家に9月6日生まれる。旧貴族の門閥として、16歳で軍職に身を奉じた。アメリカ独立革命が起こるや、ただちに渡航して義勇軍に加わる。ワシントンの知遇を得、各地で奮闘。「両世界の英雄」とたたえられた。1787年2月名士会に勅選され、三部会の開催を強く要望、議会主義への志向を表明した。1789年5月の三部会に貴族部門から出馬し、そのまま憲法制定議会の議員として活動。フランス革命の精神を内外に宣揚すべき「人権宣言」の起草にあたった。1790年7月14日の連盟祭には、主催側を代表し、儀式の司会役を演じた。同時に国民衛兵の総司令官に就任し、ミラボーと並び初期革命の大立て者とうたわれた。宮廷にも食い入り、革命の激化につれ、立憲王制を守りぬこうとしてフイヤン・クラブを結成。1791年7月、王の退位を要求するコルドリエ・クラブら主催のシャン・ド・マルス人民集会を弾圧し、デモ隊に多くの死傷者を生ぜしめた。「1791年憲法」を支持し、立法議会の同志議員を院外から支援した。1792年4月、革命戦争の勃発(ぼっぱつ)後、ジロンド派内閣に請われて全軍の司令官に就任。6月20日パリ市民の宮廷乱入事件の報を聞くや、無断で前線からパリに直行し、議会でジャコバン・クラブはじめ過激な諸機関の閉鎖と、乱入事件の責任者の処罰を要求したが、いれられなかった。また国王に対し腹心の部下の守るコンピエーニュ宮への移転を促したが、王妃の反対を浴び、これまた失敗した。前線に帰った彼は、8月10日のパリ市民によるチュイルリー王宮襲撃事件と王政の停止を聞き、もはやフランスに身の置き場もないと考えてか、幕僚とともに敵オーストリア軍に降伏した。その後オルミュッツ(チェコ名オロモウツ)に拘禁され、1800年に帰国したが、ナポレオンの治下では隠棲(いんせい)を続け、王政復古とともに政界に帰り咲いた。1830年の七月革命には、自由派の市民の指導者として活躍。一時は大統領候補のうわさにも上るが、七月王政の成立とともに、ルイ・フィリップ王の国民軍司令官を務めるにとどまった。1834年5月20日没。
[金澤 誠]