一般に,イギリスを中心とするヨーロッパ諸国の資本主義生成期に,資本の本源的(原始的)蓄積を促進する関係にあった経済諸政策,経済諸思想および経済諸学説の総称として用いられる。内容的には,一義的に規定できない不安定な学術用語で,とくに最近の研究の進展につれて,いっそう多義的に使用されている。時期区分の点も,イギリスの場合,広くは政治的にチューダー王朝成立期(15世紀末),経済的に価格革命の影響期(現実には16世紀末)から産業革命の開始期(学説史的には《国富論》刊行の1776年),あるいは政策史的に自由貿易政策の台頭期(1820年代)までとする見解や,狭くは名誉革命(1688)以後だけを〈固有の重商主義〉とする見解など多様である。
このように多義的使用を生みだした主要な歴史的根拠は次の点にある。(1)資本主義的生産様式が成立するための歴史的前提である商業の世界市場的拡大が,商品流通部面を本来の活動の場とする商人資本によって可能だったということ。(2)生産部面に対し寄生的性格をもつ商人資本の活動が古い封建的生産様式を解体させる作用をもつかどうかは,古い生産様式の内部構成がどの程度まで商品経済の発展に対応しうるまでに成熟していたかによって左右され,商人資本やそれによる商業の発展だけによっては決定されないということ。ヨーロッパ諸国の商業戦がスペイン,ポルトガル,オランダ,フランス,イギリスの諸国間で行われ,結局イギリスで資本主義社会が先進的に成立したという歴史経過は,この点を示している。(3)政策体系としての重商主義は,資本の本源的蓄積政策として歴史的意義をもったが,しかし政策主体である国家権力は,それ自体,商品経済の発展に伴って古い階級的立場からの変更を迫られたのであり,そのために政治権力の経済への介入は,従来の階級的基礎との関係から,ときには商品経済の現実の発展と対立する場合もあり,政策史的に首尾一貫したものではありえなかったということ。(4)重商主義者と呼ばれる人々は,種々な形で政治権力の経済への介入を要請した点では共通だったが,各自の政策的主張を裏づける理論的主張の点では,当時の商品経済の発展がそれ自身経済的に自立的に発展しうるまでに達していなかったために,経済外的な種々な立場から当時の商品経済の発展を統一的に理解しようとして理論的に模索する程度にとどまらざるをえなかったということ。(5)他のヨーロッパ諸国やアメリカなどの各国は,イギリスを先進的とする資本主義的生産様式の形成に基づく世界市場支配やその産業革命の影響のもとで,それぞれの国に特有な資本の本源的蓄積過程を遂行せざるをえなかったことから,これらの国々をも含めて一義的に重商主義を概念的に規定することは困難であること,などである。
重商主義の諸政策体系とそれらの変遷とを典型的な形で示したのは,やはり資本の本源的蓄積過程が典型的な形で遂行されたイギリスであった。その変遷過程を大別すれば,初期の重金主義つまり取引差額主義balance of bargain systemから貿易差額主義balance of trade systemへの転換,さらに17世紀中葉以降の貿易構造の変化に伴う自由貿易論と保護主義との対立期への変容とに分けることができる。また,これらの過程は,政治体系との対応においては絶対主義的重商主義royal mercantilismと議会的重商主義parliamentary mercantilismとに分けることもできる。
この転換は,第1次土地囲込み運動と国内産業の発展とに基づいて進行し,直接には1620年に始まる毛織物輸出の不振と国内の貨幣不足とを契機とする〈外国為替論争〉(歴史上最初の経済論争)によって表面化した。この論争は,重金主義者G.deマリーンズと貿易差額論者E.ミッセルデンおよびT.マンとの間で行われ,前者が直接的,個別的な貿易統制政策による貨幣的富の国外流出防止と流入促進とを主張したのに対し,後者は総括的貿易バランス論を主張し,最終的にはマンの主著《外国貿易によるイングランドの財宝》(1664,死後出版)によって体系化された。A.スミスはこのマンの主著を〈すべての他の商業国の経済学の基本的命題になった〉ものと評価し,それ以来この著書は長いあいだ重商主義の古典とみなされてきた。総括的貿易バランス論は,貨幣的富を重金主義のように直接重視するのではなく,むしろより多くの貨幣的富を獲得するための元本(資本)とみなし,一歩発展した見地を示した。またその見地から,国民的富としての〈財宝〉の増加は〈自然的富〉つまり未加工の原料などの輸出によるよりも,〈人為的富〉つまり労働によって加工された製品輸出によるほうが有利だとする見解まで示すに至った。しかしこのような生産部面への着目は,輸出によって貿易収支の残高を有利にさせるかぎりでの生産物を生産する特殊な生産部面に着目したにとどまり,生産部面一般の重視ではなかった。それは,資本主義生成期の商品経済の発展がまだ社会的生産を本質的に商品生産化していなかったことによる歴史的制約を免れていない。
その後17世紀中葉の航海条例(イギリス本国と植民地間の貿易を国民的独占の体制として確保するために他国,とくにオランダの排除を意図した条例)の発布と施行,さらに17世紀末までには,毛織物輸出の相対的減少と再輸出品の相対的増大という貿易構造の変化に対応する国内産業保護政策(戻し税の拡充,輸出奨励金の交付,原料品輸入税の廃止などの関税政策)の採用,貨幣信用制度面におけるイングランド銀行の設立(1694)と国債制度の確立,従来の特権的諸収入にかわる近代的租税制度の導入など,資本の本源的蓄積の諸契機が出そろった。こうした歴史的経過のなかで先の総括的貿易バランス論は,対フランスとの競争段階への移行につれて,独占会社の貿易の〈自由〉を主張する〈トーリー党の自由貿易論〉に成長していった。J.チャイルド,C.ダベナント,N.バーボン,D.ノースなどがその代表者である。他面,こうした自由貿易論の見地は,17世紀の70,80年代に始まる東インド産綿布とイギリス産毛織物との競争関係をめぐる〈キャリコ論争〉を契機にして,ウィッグ党的な国内産業保護主義との対立を表面化させるに至った。J.ポレックスフェンなどが保護主義の代表者であるが,この保護主義も国内産業の生産力全体の上昇ではなく,労働・雇用・勤労の差額として貿易バランスを順にもたらすかぎりでの生産力上昇を企図していたにとどまる。
18世紀にはいると,フランスの絶対主義的重商主義(コルベルティスムcolbertisme),とくにイギリス産毛織物に対する重関税政策に対抗して新市場を獲得するためにメシュエン条約(1703),ユトレヒト条約(1713)が締結され,後者の付帯条項〈英仏自由通商条項〉に関しては〈英仏通商論争〉が引き起こされたが,結局,英仏の自由通商は1786年のイーデン条約まで延引された。この論争の渦中で保護主義者C.キングは保護関税の必要と低賃金の実現とを説いたが,これに対し自由貿易論者D.デフォーは《イギリス経済の構図》(1728)などで,高賃金による消費増大に基づく国内市場形成と労働意欲・生産力増大による輸出製品の実質的低廉化の必要を説き,保護主義者の悲観的見地からの転回を意図した。この意図は,D.ヒュームやJ.タッカーを経てA.スミスにつながる経済思想であった。
重商主義期の主要な理論家・思想家としては,以上に挙げた人たちのほかに,イギリスでは,労働価値説を萌芽的に説き古典派経済学の最初の人と評価されているW.ペティ,私的所有権の根拠を労働に求めその見地に立脚してT.ホッブズからの前進を示し同時に貨幣・利子論の分野でも貢献したJ.ロック,ロックの貨幣・利子論の系譜に属する自由貿易論者J.バンダーリント,重商主義的性格を残しながらも特異な思想家として主著《蜂の寓話》(1714)を著したB.deマンデビル,古典派経済学の生誕を用意した関係にあるR.カンティヨン,J.ハリス,スミスの師F.ハチソン,さらに有効需要重視の観点から経済学の体系化を試み《経済学原理》(1767)によって〈最後の重商主義者〉と呼ばれることになったJ.スチュアートなどを挙げることができる。
イギリス以外の後進資本主義国だったフランス,ドイツ,アメリカなどは,イギリスの世界市場支配とその産業革命の進展に影響されつつ,その特殊な後進的社会構造を資本主義化したために,重商主義の語をこれらの国における歴史的体制概念として使用することは困難である。政策史的には,ナポレオンの大陸制度,18世紀ドイツの領邦諸国家で〈官房学Kameralismus〉の名称で知られる経済・財政政策,本源的蓄積政策としての意義をもった1834年のドイツ関税同盟や1789年以後のアメリカの工業保護制度などが注目される。重商主義者としては,イタリアのA.セラ,フランスのJ.ボーダンやA.deモンクレティアン,ドイツの官房学者J.J.ベッヒャーとJ.H.G.vonユスティ,保護主義者としてはフランスのF.V.D.deフォルボネ,J.A.シャプタル,ドイツの〈新重商主義者〉と呼ばれるF.リスト,〈アメリカ体制論者〉のA.ハミルトン,D.レーモントらが注目される人たちである。
執筆者:時永 淑
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16世紀末から18世紀にかけてヨーロッパの国々を支配した経済思想をさす。
資本主義生産は、15世紀末に行われた新大陸の発見や、東インド航路の開拓によって新しい転機を迎えた。地理上の発見によって世界市場は急速に広がり、それとともに新市場の生産物と資源、植民地の獲得をめぐって、スペイン、オランダ、イギリス、フランスの諸国の間に激しい商業戦が展開された。とくに16世紀のなかばごろ、ボリビアとメキシコで金鉱や銀鉱が発見され、それによってヨーロッパの金銀の貯蔵量は飛躍的に増大した。
こうした歴史的な背景のもとに、重商主義とよばれる経済思想が生まれてきたのは自然の成り行きであった。16世紀には、いわゆる初期重商主義、あるいは重金主義とよばれる主張が生まれ、17世紀からは後期の、発展した本来の重商主義体系が出現した。なお、重商主義ということばは、この派に属する人々によっては使われず、のちに重商主義に対して批判的立場にたったフランスの重農主義者や、イギリス古典学派のアダム・スミスによって用いられたのである。
重商主義者たちはルネサンスの影響を受けて、経済現象を、いたずらに宗教的に、倫理的に価値づけたり、非難したりしないで、それを客観的に、因果論的に観察した。しかも彼らは、アリストテレスや中世の寺院法学者によって卑しいものと決めつけられていた金もうけの方法や商業を、経済の中心に引き上げ、それを振興することを一国の経済政策の指導原理としたのである。
普通、重商主義者とよばれている人々の見解は、個々の点についてみるとかなり違っており、一貫した体系をなしていないけれども、その主眼とするところは、次の点に要約される。第一に、重商主義者たちは、一国の富のうち、金銀貨幣をもっとも貴重な、永久不滅の財宝とみなし、一国の経済政策の重点を、この財宝の増大に置いたことである。第二に、貨幣を重視する重商主義者は、利潤を獲得することと、貨幣を増やすことをまったく同じものと考え、そして貨幣は、商品を安く仕入れて高く売ることから、つまり売買の差額から生まれてくるものと理解した。だから利殖という点からすると、農業や工業よりも商業のほうが優位にたつものとみなされるようになった。第三に、商業は利潤の獲得の強力な手段ではあるが、国内の商業は一国の富の増進に寄与しない。なぜなら、売り手の利益は買い手の損失であって、一国全体としてみると、そこに積極的な利潤が発生しないからである。しかもヨーロッパでは金銀の国内産出量はわずかであって、その大半は新大陸から、主としてスペインを通じて入手していたのである。そこで、第四に、彼らは次のような一般的結論に達した。一国の金銀を積極的に増やすには、商品の輸入額よりも輸出額を多くし、外国貿易の差額を有利にして、その差額だけ金銀を自国に流れ込むようにしなければならないというのである。
重商主義者たちはこのような観点にたって金銀の増加策を研究した。しかも初期の重金主義者たちは、貨幣を蓄財家の目をもって眺め、いったん国内に流れ込んだ貨幣はしっかりと握り締めて、絶対に国外に流出させまいとした。彼らの主張に基づいて、ヨーロッパの国々は厳重な金銀の輸出禁止策を採用し、法律を破って金銀を国外に持ち出す者を厳しく罰したのである。しかし、このような政策はかえって外国貿易の発展を妨げ、金銀を獲得する良策でないということに気がついた。そこで後期の発展した重商主義者たちは、貨幣を蓄財家の目で眺めないで、それを運転することによって利潤を得たほうが賢明であると説いた。彼らは、初期の重金主義者のように、外国から商品を輸入することを制限したり、金銀を持ち出すことを禁止したりしないで、輸入した商品よりも多くの額の商品を輸出することによって、金銀の流入を図ろうと努力した。重商主義の学説は、貨幣差額論から貿易差額論へと発展したのである。
重商主義は、資本の、とりわけ商業資本の通弁として現れてきた。だからこの主義の主唱者の多くは商人階級から出ている。ボーダン、トーマス・マン、セラAntonio Serra(1580―?)、モンクレティアンAntoine de Montchrétien(1575/76―1621)などが、代表的な重商主義者に数えられている。とりわけイギリスの東インド会社の重役であったトーマス・マンは、生涯をイギリスの外国貿易の発展のために捧(ささ)げるとともに、『外国貿易によるイギリスの財宝』という遺言書を息子のジョンのために書き残した。それはトーマスの死後1664年に出版された。アダム・スミスが批評したように、この本に盛られた方策は、イギリスばかりでなく他のすべての商業国の経済政策の基本となったのである。
重商主義の貿易政策は、外国品の輸入禁止や、高率の輸入関税政策や、さらにそれと並んで、輸出奨励金制度、輸出品工業の保護伸長政策、および冒険商人や国策会社の活動を奨励する政策に向けられていった。1600年に創設されたイギリスの東インド会社は、重商主義政策の花形として国際舞台のうえで活躍した。同種の会社は、オランダ、フランス、デンマーク、スウェーデン、プロシアなどの諸国で相次いで設立され、それらの間で激しい商業上の競争が展開された。とりわけフランスでは、ルイ14世の大蔵大臣コルベールが極端な重商主義政策を強行したので、その方策はコルベルティスムColbertismeともよばれるようになった。
重商主義もまた矛盾に突き当たらざるをえなかった。一国が重商主義政策をとると、他国もまたこの方策をもって対抗し、互いに関税の障壁を設けて、輸入を抑制し、外国貿易を阻害するようになるからである。重農主義や古典学派の自由貿易政策は、重商主義を克服するために提唱されたのである。
[越村信三郎]
『小林昇著『重商主義の経済理論』(1952・東洋経済新報社)』
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16世紀から18世紀まで西ヨーロッパ諸国で,支配的な経済政策,経済理論をさす。官僚,軍隊,宮廷貴族の継持のため,多額の貨幣を要する王権の必要から生じたもので,最初は貴金属それ自体の獲得を目的とする重金主義,のちに商工業保護の色彩をもつ貿易差額主義へ移った。特権大商人の独占を保護し,産業資本の発達を阻止する絶対主義の重商主義と,市民革命後まだ未成熟な産業資本を保護しようとする重商主義とが区別されることもある。後者はイギリスでは議会的重商主義ともいう。フランスではナポレオン1世下の保護主義がそれにあたる。
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…そこで輸出を奨励し国内の産業を保護育成することに努めた。この重商主義政策の実施のため,ヨーロッパ列強は原料の生産地ならびに製品の市場として植民地を必要とし,植民地獲得のための戦争が展開された。各国は競って海軍の拡張に乗り出した。…
…官房学はこのような領邦君主と官僚のための学問であり,絶対君主制を確立するための学問であった。そこで,約1世紀半にわたる官房学に共通していたのは,重商主義のドイツ版というべき経済政策によって君主の財庫の繁栄をはかる方策が論じられ,君主主権の絶対性が弁証され,後見主義的な官房行政が一般福祉の名のもとに正当化されたことである。もちろん,官房学も時期的に変遷している。…
…それは競争的市場が存在しない場合に価格をどのように決定すべきかを論ずる規範的理論であり,最近の所得政策,労使間の団体交渉による賃金の決定との関連で,現代的意義をもつといえる。経済学のもう一つの歴史的源泉は,実際的な時事問題に関する通俗的討議から発展した科学的認識であり,その代表は,16世紀から18世紀にいたるヨーロッパ絶対主義諸国家の経済政策およびそれをめぐる諸学説の総称である重商主義である。通常,重商主義は金が国富であると考える重金主義に基づく貿易差額重視の政策であるといわれるが,これについては貨幣量と物価の比例関係を主張する貨幣数量説による批判が当時からあった。…
… 封建社会が解体して,近代的個人がそれぞれに生活状態の改善を求めて努力するようになると,富の性質と原因についての理論的探求がはじまり,国王や領主も彼ら自身の立場から同じ問題に関心をもつようになる。重商主義は,この問題に対して,仕入価格と販売価格との貨幣差額(譲渡利潤),あるいは国の貿易における個別取引または全貿易の差額(取引差額または貿易差額)が富の源泉であり,富とはこのようにして得られた貨幣なのだとこたえた。しかしこの考え方では,自由競争によって一物一価の原理が実現すれば(完全な実現はありえないとはいえ)利潤がなくなってしまうので,流通過程の独占または寡占を確保しなければならない。…
… このころ全国的な統一国家の建設によって成立した絶対王政は,商人資本の内外における活動を保護し,貿易差額を増大させて金・銀という貨幣的富の蓄積をはかる致富政策を推進した。重商主義とよばれるこの絶対王政の経済政策は,商品経済に対する政府の統制を強化しつつ商品経済の拡大をはかり資本の蓄積を促した。 資本主義経済へのこうした道を最初に歩みはじめたのは,封建秩序の解体が最も早かったイギリスである。…
…こうして,18世紀にはイギリス,フランス両国の熾烈な覇権争いが断続的な戦争を引き起こしたが,結局七年戦争に敗れて,フランスの勢力は後退を余儀なくされた。イギリスやフランスによる商業覇権をめぐる争いの手段として採用された経済・社会政策――航海法や〈コルベール体制〉など――は,ひろく重商主義と呼ばれている。重商主義とは,いわゆる資本の原始的蓄積のための政策と定義することも可能で,封建制から資本制への〈移行期〉がしばしば〈重商主義時代〉と呼ばれるのも,この時代における商業資本の活動の優越を考慮してのことである。…
※「重商主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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