11世紀以後,主としてスンナ派イスラム王朝の君主が用いた称号。アラビア語で正しくはスルターンとよぶ。古代シリア語のシュルターナー(権力,権力者)に由来する。コーランではこの語は精神的・呪術的な権威を表すものとして用いられた。その後ハディースやアラビア語文献史料で政治的権威を示す語として使われ始め,11世紀以後になって王朝の支配者の称号として使用されるようになった。しかし,イスラム世界(ウンマ)には,その長としてカリフが存在する。このためセルジューク朝,ルーム・セルジューク朝,マムルーク朝など〈スルタン〉の称号を用いた支配者の多くは,カリフからこの称号を授けられる形式をとった。つまり,イスラム世界の精神的な長であるカリフから,特定地域(王朝の支配領域)における世俗的な政治権力を委任されるという手続をふんだのである。イスラム諸王朝には,主権者を表す語として,このほかにアミールなどの称号が存在したが,スンナ派イスラムの最大の軍事的・政治的擁護者としての〈スルタン〉の権威をイスラム世界に広く認めさせたのは,オスマン帝国(1299-1922)である。これに対してイランにおけるシーア派のサファビー朝では,君主の称号に〈シャー〉を使用した。
オスマン朝におけるスルタン位は,1396年のニコポリスの戦の後,バヤジト1世がカイロにいたアッバース朝カリフの末裔からスルタン位を授けられたことに始まり,オスマン王家によって世襲された。その方法にとくに規則は存在しなかったが,事実上,16世紀末までは親から子,17世紀以後は一族の年長者によって相続が行われた。また,王位継承争いを防止するために,メフメト2世(在位1444-46,1451-81)は,即位後に〈兄弟殺し〉を合法化させた。しかし,17世紀初頭にアフメト1世は,これを廃止して王位継承候補者をトプカプ宮殿内の一室(ハレム)に隔離・教育した。このことはスルタンの行政能力の低下,軍人・官僚・ハレムなどの側近による執権政治への移行をもたらした。なお,1517年にエジプトを征服してアラブ世界を支配下に収めて以来,オスマン朝スルタンは,同時にカリフとしての資格を兼ね備え,その威光は遠く中央アジア,インド,東南アジアにまで及んだ(スルタン・カリフ制)。ただし,オスマン朝の年代記など文献史料では,スルタンよりも〈パーディシャーpādişāh〉〈ヒュンキャールhünkār〉がよく用いられた。しかし,勅令など公式文書では〈スルタンたちのスルタン〉を号した。オスマン朝ではこの称号は,1922年にスルタン位とカリフ位とが分離されて前者が廃止されるまで使われた。また,この称号は西アジア以外でも,東南アジアやアフリカのイスラム系王朝・首長国などでも,支配者の称号としてしばしば用いられただけでなく,さらに一般的にイスラム諸国の王家の一員,高官,学者,詩人,名士,神秘主義諸教団の長老などの固有名詞の前に尊号として付けられた。オスマン朝でもオスマン王家の女性たちの名に冠せられた。現代中東ではオマーンの君主がスルタンの称号を用いている。
執筆者:永田 雄三
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イスラム教最高権威者であるカリフが授与した政治的有力支配者の称号。コーランでは、宗教的に重要な証示、または権威の意味で使用され、非人格的なものであったが、のち特定の地域を支配する個人の称号となった。875年、アッバース朝カリフ、ムウタミドの弟が最初にこの称号を受けた。世俗的権力の最高権威をもつイスラム専制君主の公式称号としては、トルコ系のガズナ朝に使用例がある。しかし、実質的には、1055年バグダードに入城したセルジューク朝のトゥグリル・ベクが、1058年にアッバース朝カリフ、カーイムから授与されたことに始まる。その後、小アジアのルーム・セルジューク朝、エジプトのマムルーク朝、そしてオスマン朝と、この称号が襲用された。ただ、イランでは地方知事の称号として使用され、現代では、北アフリカからインドネシアに至るイスラム諸国において、土豪や小君主が政治的支配者として、スルタンの称号を用いている。
[設楽國廣]
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アラビア語で「支配者の地位」を意味した。その使用例は10世紀以前にまでさかのぼる。だが,特定地域の独立君主の称号に使用されるのは11世紀頃からで,カリフ神権政治の衰退期において至高の教権の保持者たるカリフの地位に対し,世俗的支配権の保持者をさした。カリフ神権政治の崩壊後は,イスラーム諸国の大小の主権者の通称となった。
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1924 -
サウジアラビアの王子。
副首相。
初代国王イブンサウードの第12子。ファハド国王の実弟。スディリー財閥の7人の一人。1958年交通相、’62年国防・航空相、’82年第2副首相となる。親米・親西欧路線の王族内の実力者。正規軍を掌握している。
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…その甥のトゥグリル・ベク,チャグリー・ベクChaghrī Bek(987‐1060)らは,1038年ニーシャープールに無血入城し,40年にはダンダーナカーンDandānqānの戦でガズナ朝軍を破り,ホラーサーンの支配権を手中に入れた。55年にトゥグリル・ベクはバグダードに入り,アッバース朝カリフより史上初めてスルタンの称号を公式に受け,東方イスラム世界における支配者として公認された。セルジューク朝の進出がモンゴルの侵入とは異なり,大きな混乱・破壊を伴わなかったのは,すでにイスラムに改宗し,〈信仰の擁護者〉として出現したためである。…
…10世紀半ば,イスラム世界に軍事政権が成立してカリフ権が弱体化すると,ワジールもカリフの単なる書記に転落した。ただセルジューク朝時代にはスルタンを補佐する宰相職の意味に復した。ファーティマ朝では,アッバース朝にならって官僚出身者がワジールとなったが,そのような文官支配による国家体制も前半期までで,後半になると軍人が宰相職も兼ね,他のイスラム世界の軍事政権と変りないものとなった。…
※「スルタン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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