マフムード(読み)まふむーど(英語表記)Mamūd

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マフムード」の意味・わかりやすい解説

マフムード
まふむーど
Mamūd
(971―1030)

アフガニスタンガズナ朝の最盛期の君主在位998~1030)。父サブクティギーンの死後、弟イスマーイールを倒して権力を握った。自らスルタンと号したので、一般にスルタン・マフムードとして知られているが、公的にはあくまでもアッバース朝カリフによって任命されたアミール総督)の地位にあった。また、ヤミーヌ・アッダウラ(王朝の右手)ともよばれていた。軍隊を整備し、治世の大半を遠征で過ごし、領土の拡大に努めた。東方ではカラ・ハン朝、西方ではブワイフ朝から領土を奪取し、サッファール朝をも服属させた。とくに重要なのは11世紀初頭より十数回に及んだインド遠征で、なかでも1026年のソムナート寺院の偶像破壊は、インドのイスラム化のうえで象徴的な事件であった。彼の最大の失政は、辺境の守備軍としてセルジューク勢力を導入したことで、息子マスウードの代にホラサーンを失う原因となった。27年インド遠征で病を得、激務を続けながら没した。

[清水宏祐]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マフムード」の意味・わかりやすい解説

マフムード
Maḥmūd b. Subktigīn Yamīn al-Dawla, Abū al-Oāsim

[生]970.11.13.
[没]1030.3.
アフガニスタン,ガズニー朝第7代の王 (在位 998~1030) 。弟のイスマーイール (在位 997~998) を倒して王位につき,主家のサーマン朝と絶縁し,17回にわたり北インドに侵入。中央アジアのカラハン朝戦い,北はアラル海から南はインド洋,西はカスピ海から東は北インドに及ぶ大国を樹立した。学問,芸術を保護し,首都ガズニーの宮廷にはフィルダウシービールーニーをはじめ多くの学者文人が集った。

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