ユーゴスラビア社会主義連邦を構成していた6共和国の一つで、1991年に独立した共和国。スロベニアは第一次世界大戦までオーストリア・ハンガリー領の一部であり、1918~1945年は、南スラブの統一国家「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」の一部であった。第二次世界大戦後はユーゴスラビア社会主義連邦を構成する6共和国の一つとなった。1991年6月25日独立宣言後、ユーゴ連邦人民軍との間で小競り合いが生じたが、10日後に終結して独立、スロベニア共和国となった。1992年、国連加盟。
北はオーストリア、西はイタリア、東はハンガリー、南はクロアチア、南西部はわずかにアドリア海に面している。面積2万0256平方キロメートル、人口196万4036(2002年センサス)。民族構成は83%が南スラブ系のスロベニア人、言語はスロベニア語であるが、少数民族居住区ではハンガリー語、イタリア語が併用される。宗教はローマ・カトリック教徒が多数を占める。首都リュブリャナ。議会制共和国である。独立後の通貨はスロベニア・トラールSITであったが、2007年1月よりユーロとなった。
[漆原和子]
スロベニアにはカラバンケ(カラワンケ)山脈、ユリスケ(ユーリッシュ)・アルプスがほぼ東西に走る。ユリスケ・アルプスには旧ユーゴスラビアでも最高峰であったトリグラウ山(2863メートル)があり、山麓(さんろく)にはボッヘン、ブレッドなどの氷河湖がある。ドラバ川とサバ川がアルプスを源流として南東の平原部に流下する。美しい自然に恵まれ、年間150万人を超える観光客が訪れる。
スロベニアは地中海からパンノニア地方の平原へ、またアルプスからバルカン半島への交通の要所であるが1991年カラバンケ山地を貫通するトンネルの完成により、西ヨーロッパと直結する高速道路に組み込まれた。共和国の西部には石灰岩が広く分布し、とくに北西部の石灰台地クラスKras地方は、その名称が石灰岩の溶食地形「カルスト」(ドイツ語)の語源となった。内陸は大陸性気候で、平野部では大麦、小麦、ジャガイモ、ホップ、ブドウなどを産する。イエセニツェの製鉄、クラニの電気機器、リュブリャナの製薬などが盛んである。天然資源としては石灰、水銀、石油、天然ガスを産する。
[漆原和子]
6世紀後半、スロベニア人はサバ川上流およびその周辺地域に定住した。7世紀にはフランク人サモを支配者として中欧に築かれたスラブ人国家の統治を受けた。8世紀中ごろには、フランク王国の支配を受け、カール大帝の治世にカトリックを受容して、ローマ・カトリックの勢力下に置かれた。布教活動はドイツ人による植民活動を伴っていたので、スロベニアにおけるドイツ人の影響が増大していった。10世紀中葉、神聖ローマ帝国が形成されると、スロベニア人の地域はこの支配を受け、さらにドイツ化が進められた。このように、スロベニア人は中世に自らの国家を建国することができなかった。しかし、この時期にスロベニア人が自らの民族性を保持しえたのは、スロベニア人のカトリック聖職者が精力的に啓蒙(けいもう)活動を展開したからだとされている。13世紀にハプスブルク家のルドルフが神聖ローマ帝国の皇帝に選出されたあと、スロベニアに対するハプスブルク家の支配が確立し、第一次世界大戦期まで600年以上も続いた。19世紀になると、スロベニア人の間でも文化的な民族の統一運動、たとえば1860年代には、スロベニア語を守るための読者協会が多くの都市に結成されて、政治にも大きな影響を及ぼした。スロベニア人はハプスブルク帝国内のいくつかの州に分散していたが、こうした運動に先鞭(せんべん)をつけたのはリュブリャナを中心とするクライン地方であった。さらに、1848年革命期にスロベニアではクライン、ケルンテン、シュタイアーマルクなど(現オーストリア)のスロベニア人地域を含む統一スロベニアの自治が、初めて要求として掲げられた。スロベニア語の重要性が改めて意識され、スロベニア人意識が強まるにつれ、スロベニア人の住む地域の統合が最大の関心事となっていく。1918年12月、南スラブの統一国家「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」が建国され、スロベニア人地域の大部分がこの国家に組み込まれた。スロベニア人はクロアチア人とは違って、この統一国家に反対の姿勢をとらなかった。イタリアに残された50万のスロベニア人少数民族の問題を統一国家とともに解決することが政治目標だったからである。第二次世界大戦期には、ユーゴスラビアがナチス・ドイツをはじめとする枢軸国軍の侵攻を受けると、スロベニア地域はドイツとイタリアによって折半された。しかしイタリアとドイツに対するパルチザン戦争が勝利を収め、1945年11月にユーゴスラビア連邦人民共和国が成立。スロベニアは6共和国の一つとなり、イタリア領であったスロベニア人地域がスロベニア共和国に帰属することになった。第二次世界大戦後、社会主義ユーゴのもとで、スロベニアは経済的に最先進共和国の地位を占め、1960年代末に他の共和国で民族主義的な運動が展開されても、ナショナリズムの動きが表面化することはなかった。
[柴 宜弘]
1980年代の「経済危機」により、ユーゴ自主管理社会主義が変質し崩壊していく過程で、最先進共和国スロベニアの突出した行動が顕著になる。政治的には連邦に大きな力をもち、ミロシェビッチのもとで連邦の維持、強化をねらう最大の共和国セルビアと、経済的観点から国家連合形態を求めるスロベニアとの対立が表面化した。1990年、自由選挙が6共和国で順次に行われ、スロベニアでは野党連合が勝利を収めたが、民主改革党と改称した共産主義者同盟が単一の政党としては第一党となった。しかし、野党連合も民主改革党もスロベニアの独立の方針では一致しており、同年末の独立の是非を問う国民投票では90%近い独立賛成票が示された。こうして1991年6月、クロアチア共和国とともに、人口200万のスロベニア共和国の独立が宣言された。スロベニアは1992年1月のEC(ヨーロッパ共同体)による独立承認以後、直接的には内戦に巻き込まれることはなく、着実な発展を遂げた。一時、大幅に落ち込んだ経済も1993年にはプラス成長に転じた。旧ユーゴスラビア諸国との経済関係が修復され、EU(ヨーロッパ連合)とくにドイツ、イタリア、そしてオーストリアへの輸出が増大した。1995年にはEFTA(エフタ)(欧州自由貿易協定)の正式加盟国となり、1996年1月には中欧4か国からなるCEFTA(中欧自由貿易協定)の加盟国にもなった。さらに1996年6月には、旧ユーゴスラビア諸国のなかではいち早くEUと連合協定を締結し、1997年7月には東欧諸国ではポーランド、チェコ、ハンガリーと並んで、EUの新規加盟交渉国となり、2004年5月にEUに加盟した。NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)との関係では、2002年11月のNATO首脳会談で2004年にNATOへ正式加盟することが決定し、2004年3月には加盟が実現、国際社会での地位を確実なものとした。元首は大統領で任期は5年。独立後の初代大統領はクーチャン(1941― )。2002年にはクーチャン政権下で首相を務めたドルノウシェク(1950―2008)が大統領に就任、任期中にNATO、EU加盟を果たした。2007年より元リュブリャナ大学教授のチュルクDanilo Türk(1952― )が大統領を務める。
議会は二院制で、下院にあたる国民議会(90議席、任期4年)と上院にあたる国家評議会(40議席、任期5年)で構成されている。2008年9月の下院選では、中道左派の社会民主党が第一党となり、ザレス(「真理」)、年金者党、自由民主党と連立を組み、社会民主党党首のパホルBorut Pahor(1963― )を首班とする政権を発足させた。
[柴 宜弘]
独立後の1991~1993年は失業率はきわめて高く、1992年の失業率は11.5%、インフレ率は200%であったが、1993年より経済成長がプラスに転じ、2001年より失業率は6%台を推移、インフレ率も1990年代なかばより1桁(けた)台と改善、1人当りGDPは1万5167ユーロ(2006)であり、これは中欧・東欧諸国のなかでは高い水準にある。おもな貿易相手国はドイツ、イタリア、クロアチア、オーストリア、フランスなどで、輸送機械、電気機械、医薬品を輸出し、輸送機械、鉄鋼、電気機械を輸入、EU諸国との貿易が63%を占める(2003)。
[漆原和子]
1992年(平成4)3月、日本はスロベニアを国家承認し、10月に外交関係を樹立した。1993年には東京にスロベニア大使館が設置され、2006年にはリュブリャナに日本大使館が開設された。1995年にはリュブリャナ大学哲学部(文学部)東洋学科に日本語・日本研究コースが開設され、毎年多くの学生が日本研究を行っている。対日貿易は輸出額約58億円、輸入額が約234億円(2007)で、おもに木材、原動機、スポーツ用品を輸出し、日本から輸送機械(自動車、オートバイ)を輸入している。
[柴 宜弘]
『スティーブン・クリソルド編、田中一生・柴宜弘・高田敏明訳『ユーゴスラヴィア史』増補版(1993・恒文社)』▽『ジョルジュ・カステラン、アントニア・ベルナール著、千田善訳『スロヴェニア』(2000・白水社)』▽『柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)』
基本情報
正式名称=スロベニア共和国Republika Slovenija/Republic of Slovenia
面積=2万0273km2
人口(2010)=205万人
首都=リュブリャナLjubljana(日本との時差=-8時間)
主要言語=スロベニア語(公用語)
通貨=トラールTolar(2007年1月よりユーロEuro)
1991年6月にユーゴスラビアから独立した共和国。面積2万0251km2,人口198万5000(1992)。民族構成はスロベニア人90.5%クロアティア人2.9%,セルビア人2.2%首都はリュブリャナ。
北西のジューリ・アルプス南端が南東のディナル・アルプスへつらなる山がちの地形で,低地はわずかに東部のハンガリー盆地の一部とイストラ半島西側の頸部にあるだけである。イタリア,オーストリアとの国境近くには国内の最高峰トリグラフTriglav(2863m)をはじめ,シュクルラテツァ(2738m),ヤロベッツ(2643m)カニン(2585m)などがそびえ立つ。南部のカルスト(スロベニア語でクラス)地方には典型的なカルスト地形が発達し,世界第2のポストイナ鍾乳洞がある。気候は降雪を伴う長く寒い冬と爽快な夏の高地大陸性である。沿岸地方は穏やかな地中海性,東端は大陸性ステップである。おもな河川は,ジューリ・アルプスに源を発する旧ユーゴスラビア最長のサバ川,ドラバ川,ムーラ川,クルカ川などドナウ川に合流し黒海へ至るものがほとんどで,アドリア海へ流入するのはソチャ川などわずかしかない。氷河作用でできた湖が多く,ブレッド湖,ボヒン湖(国立公園)が観光地としてもよく知られている。針葉樹,広葉樹の森林が総面積の半分を占め,狩猟に適している。低地は草地や牧草地が多く牧畜が発達し,高地では果樹やブドウが栽培され,サバ川流域では良質のホップが多くとれる。地下資源としては褐炭,メタンガス,鉛,亜鉛,銀,水銀(国内の97%)など。スロベニアではとくに電気,化学,ゴム,製紙,金属加工,食品工業が盛んで,経済的にはユーゴスラビアで最も繁栄し,70%以上が非農業部門に就業。おもな都市と代表的な工場をあげるとリュブリャナのリトストロイ工作機械工場,マリボルのタム自動車工場,プトゥイ近くの国内最大のボリス・キドリッチ・アルミニウム工場,クラーニのイスクラ電気器具工場などが挙げられる。
かつてこの地にはイリュリア人やケルト人が先住し,やがてローマ帝国に編入されて,ノリクム州,パンノニア州の一部になった。南スラブ族のスロベニア人が移住してきたは6世紀で,7世紀の中ごろ,中欧にサモ公が築いたスラブ諸族連合国の一部となり,これは瓦解したのちスロベニア人の一部はカランタニア公国として独立した。だが8世紀末にはフランク王国に屈し,南スラブ諸族の最初の独立国は短命に終わったのである。スロベニア人は9世紀のカール大帝時代にキリスト教へ改宗した。10世紀,神聖ローマ帝国のオットー1世は折から中央へ侵出しつつあったマジャール人を防ぐため,ドナウ川からポー川に至る大カランタニア領を形成し,オットー2世がこれを東辺境領(後のオーストリア)とカランタニアに二分。11世紀カランタニア領内にもケルンテン,シュタイアーマルク,イストリア,クラインなど現在のスロベニアを成す辺境伯領が形成され,カランタニアから分裂する。しかし1278年ハプスブルク家はシュタイアーマルクを,1335年にはクラインをも併合。こうしてスロベニア人は第1次大戦まで,6世紀の長きにわたってオーストリア・ハプスブルク家の支配を受けることとなった。
中世を通じて農民は過酷な封建領主にしばしば抵抗し(1478,1515),1573年クロアティアのグーベツが指揮した農民反乱はこの地でも最大級のものとなったが,激しく鎮圧された。執拗なドイツ化政策に対しては,プロテスタントの聖職者トゥルバル(1508-86)がスロベニア語で最初の書物を出版して,スロベニア文学を確立。17世紀にはカトリック側から反宗教改革が展開されるが,彼らはよく言語を守り,民族意識を維持した。
ナポレオン時代にはイリュリア諸州として統治され(1803-14),おおいに近代化が進み,ブルジョア,プロレタリアート,学生層も生まれた。19世紀オーストリア時代を通じて,プレシェレン(1800-49),レフスティク(1831-87),ツァンカレ(1876-1918)らの文学者が,彼らの民族性に訴えて,これを民族独立の意識まで高めたといえよう。第1次世界大戦後,セルビア人クロアティア人スロベニア人王国に編入されたとき,スロベニア人の人口は100万で,このほかイタリアに50万,オーストリアに10万の同胞を残したが,第2次世界大戦後は国境線の大幅な変更に伴い,その大半がスロベニアに帰属した。
スロベニア人は7世紀に短命の国家を形成したことはあるが,常に他民族の支配下にあったといえよう。そのため万事に控え目であるといわれるが,他方,ローマ・カトリックとハプスブルク家というヨーロッパの聖俗界に君臨した二大勢力を通じて,中欧の高い文化も導入された。国内随一を誇る生活水準,教育の高さ,勤勉性は中世以降のそうした影響のあらわれである。国内は都市も農村も清潔でスイスを偲ばせる。結婚式や祭日に人々はヨーデルを歌い,ポルカを踊る。観光地としては,昔から知られている湖水地方やポルトロージ,ピランといった海岸の保養地,世界最大級のジャンプ台があるプラニッツァなどの山岳地,ポストイナ鍾乳洞,バロック建築が美しい主都リュブリャナの旧市街などがある。リュブリャナでは国際グラフィック・ビエンナーレが催され,第1回の浜口陽三をはじめ,日本の版画家もしばしば受賞している。大学はリュブリャナ,マリボルに,スロベニア科学芸術アカデミーはリュブリャナにある。
執筆者:田中 一生
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