ハンガリー事件(読み)ハンガリージケン

デジタル大辞泉 「ハンガリー事件」の意味・読み・例文・類語

ハンガリー‐じけん【ハンガリー事件】

1956年、ハンガリーで非スターリン化を求めて発生した大規模な反政府・反ソ暴動。首都ブダペストを中心各地に波及したが、ソ連軍の介入で鎮圧された。

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改訂新版 世界大百科事典 「ハンガリー事件」の意味・わかりやすい解説

ハンガリー事件 (ハンガリーじけん)

1956年にハンガリーで起こった共産党(1948-56年勤労者党,56年以降社会主義労働者党)政権に対する大規模な民衆蜂起。原因はまず共産党がソ連軍の武力背景に政権を独占し,恐怖政治を行ったことで,ラーコシ政権下での反対派迫害は異常な広がりと残酷さをみせ,成人人口の2割近くが解雇,逮捕,拷問,投獄,強制労働,国内僻地(へきち)やソ連内奥への流刑死刑などを経験した。次に重工業中心の無理な工業化政策で国民の消費生活が犠牲にされ,1949-52年には労働者の実質所得は18%も下落し,農業政策の失敗で食糧事情が極度に悪化していた。また55年にソ連軍がオーストリアから撤退し,民衆の間にハンガリーからの撤退も間近い,蜂起すれば西側の援助が見込めるという幻想が生まれたのも一因である。

 ソ連共産党20回大会(1956年2月)ののちにスターリン批判が公となり,党青年組織の討論クラブ〈ペテーフィ会〉に拠った知識人が大胆な党指導部批判を始めたのが発端であった。知識人の体制批判はポズナン暴動後のポーランド情勢に刺激されてしだいに急進化し,より広い社会層を巻き込んでいった。10月23日に学生,市民のポーランド連帯デモが行われたが,治安部隊が発砲したため暴動と化し,政府の要請でソ連軍が出動した。こののち軍や警察から武器を入手した市民と治安部隊,ソ連軍との間で激しい戦闘が起こった。同月24~25日に発足したナジ首相カーダール党第一書記の新政権は一連の政治的経済的緩和措置を発表して事態を掌握しようとした。ソ連もこれを支持し,10月末にはいったん過去の誤りを認め,軍隊の引揚げを約束した。しかし,この間に政府・党機構が自己崩壊を起こし,首都では労働者評議会が,地方では革命委員会が事実上の権力を握るようになった。

 ソ連はこの事態をみて第2次介入を決意した。ナジはソ連軍の動きに不安を感じて,11月1日ワルシャワ条約機構からの脱退を宣言し,2日後共産党が少数をなす連立政府を組織した。これに対してソ連は翌4日首都を占領し,2週間の激しい戦闘ののち全土を制圧した。またソ連領内に〈労農革命政府〉を発足させ,その首班にカーダールを据えた。こうしたソ連の行動は西側諸国の非難を浴びたが,おりから勃発したスエズ危機によってかなり助けられた。事件後ナジとその協力者はソ連軍に拉致され,58年処刑された。暴動によって数千人が落命し,約20万人が亡命,国民総生産の1/5相当の財貨が失われた。事件はソ連の東欧支配が軍事力に基づいていることをあからさまにし,西欧諸国や日本の左翼知識人に大きな衝撃を与えたばかりではなく,中国など一部社会主義国にもソ連モデルへの反省を生んだ。
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百科事典マイペディア 「ハンガリー事件」の意味・わかりやすい解説

ハンガリー事件【ハンガリーじけん】

1956年,社会主義圏における非スターリン化の動きを背景に起きた事件。同10月ブダペストに起きた学生の反政府デモは全国に波及して反ソ暴動となった。首相ナジがソ連軍介入を要請したが民衆の反発を受け,一党独裁廃止,ソ連軍撤退要求,国連提訴など譲歩策をとった。このため再度ソ連軍が介入,ナジ政権は倒壊した。代わったカーダール政権はソ連の武力を背景に反ソ・反政府運動を鎮圧した。→スターリン批判
→関連項目クリスト・アンド・ジャンヌ・クロードクリストフハンガリーハンガリー社会主義労働者党ラーコシリゲティルカーチ

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旺文社世界史事典 三訂版 「ハンガリー事件」の解説

ハンガリー事件
ハンガリーじけん

1956年10月,非スターリン化をめざして首都ブダペストを中心にハンガリーに起こった民衆蜂起
ソ連共産党20回大会後,ポーランドの非スターリン化に刺激されて,知識人・労働者の改革要求デモが暴動となったため,ナジ=イムレが労働者党(1948年,共産党と社会民主党の合併により改称)の中央委員会に呼びもどされて首相に復帰した。彼は,治安維持のためにソ連軍の出動を要請したほか,大衆の要求をいれて内閣改造や旧政党の復活などを行い,ワルシャワ条約機構からの脱退と中立化を宣言した(11月4日)。事態の進展を恐れたソ連は反革命派打倒を理由に第2次介入に移り,ナジ政権は倒れた。代わって労働者党第一書記のカダルが新政府を組織し,ソ連軍の武力を借りて蜂起を鎮圧,ナジらはユーゴスラヴィア大使館に逃げ,のち逮捕・処刑された。世界の左翼知識人に衝撃を与えた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ハンガリー事件」の解説

ハンガリー事件(ハンガリーじけん)

1956年10~11月に社会主義国ハンガリーで起きた反ソ・改革要求の暴動。6月以来のポーランドでの暴動と改革に刺激されて,10月23日に学生,知識人らの改革要求のデモが起きた。政府の求めたソ連軍の介入(第1次軍事介入)ののち,改革派のナジを首相とする連立内閣ができ,複数政党制や集団農場からの離脱の自由が認められた。だが,ナジ政権がワルシャワ条約機構からの離脱をめざすと,11月4日にソ連は第2次軍事介入を行い,同政権を崩壊させた。ナジに代わってカーダールの社会主義労働者党の親ソ政権ができたが,労働者評議会によった改革派の抵抗は年末まで続いた。1989年以後,10月23日は国民記念日。

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世界大百科事典(旧版)内のハンガリー事件の言及

【東欧】より

…これに刺激されて,ハンガリーでも党員のうちの知識人層に改革派が成長し,56年10月には政治・経済体制の民主化を求める運動が首都の労働者・市民のデモとなった。しかしナジらの指導者は民族主義的となる国民を指導しきれず,ハンガリーの中立化などを宣言するに至り,ソ連の軍事介入を招いた(ハンガリー事件)。この両国以外でも非スターリン化による動揺はあったが,党や政府内部の問題として処理された。…

【ハンガリー】より

…このなかでラーコシの個人独裁が生まれたり,ライク外相ら〈チトー主義者〉の粛清が行われたり,性急な重工業化と集団化が行われた。こうした点への不満は,56年2月のソ連共産党20回大会での新路線採択とスターリン批判ののちに爆発し,10月にハンガリー事件を生んだ。知識人をはじめとする国民の改革要求はナジを新しい指導者にし,ナジはワルシャワ条約機構(1955設立)からの脱退,中立化や複数政党制の承認を宣言するまでにいたった。…

※「ハンガリー事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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