三浦環(読み)ミウラタマキ

デジタル大辞泉 「三浦環」の意味・読み・例文・類語

みうら‐たまき【三浦環】

[1884~1946]ソプラノ歌手。東京の生まれ。ロンドンオペラ蝶々夫人」に主演して成功し、以後オペラ歌手として世界的名声を得た。

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精選版 日本国語大辞典 「三浦環」の意味・読み・例文・類語

みうら‐たまき【三浦環】

  1. 声楽家。東京生まれ。明治三六年(一九〇三)東京音楽学校在学中、日本最初のオペラ「オルフェウス」のソプラノで主演。帝劇歌劇部で活躍後、大正四年(一九一五)ロンドンでオペラ「蝶々夫人」の主役となり、以後欧米で名プリマドンナとして二千回余も蝶々夫人を演じ、国際的名声を博した。明治一七~昭和二一年(一八八四‐一九四六

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「三浦環」の解説

三浦 環
ミウラ タマキ


職業
声楽家

専門
ソプラノ

旧名・旧姓
柴田,藤井

生年月日
明治17年 2月22日

出生地
東京府 芝区(東京都港区)

学歴
東京音楽学校(東京芸術大学)〔明治37年〕卒

経歴
両親は静岡県の出身。音楽学校ではピアノを滝廉太郎、声楽を幸田延に学ぶ。在学中の明治36年日本人による初のオペラ公演、グルックの「オルフェオとエウリディーチェ」に主演。同年陸軍軍医藤井善一と結婚する。37年卒業後は母校の教壇に立ったが、40年に夫の仙台転勤を機に離婚。44年新開場の帝劇にプリマ兼音楽教師として招かれるが、間もなく退職。大正2年医学士三浦政太郎と結婚、翌年夫とともに欧州に留学した。4年第一次大戦で空襲下のロンドンで「蝶々夫人」に初出演したところ大絶賛を博した。その後は欧米各地の大劇場で公演、“マダム・ミウラの「蝶々」はシャリアピンの「ボリス」、パブロワの「瀕死の白鳥」とともに世界の3大芸術”とまで言われるようになる。昭和11年にシチリアで2000回目の「蝶々夫人」上演をしたのを機に帰国、2001回目を翌年歌舞伎座で演じた。他の当たり役に「ボエーム」のミミ、「イリス」のイリスなどがある。帰国後は後進の指導にも力を入れた。

没年月日
昭和21年 5月26日 (1946年)

伝記
オペラ歌手奮闘物語―繰り返せない旅だから〈4(最終巻)〉マダム・バタフライ20世紀のすてきな女性たち〈1〉歌い演じるよろこび―オードリー・ヘプバーン、三浦環、ビリー・ホリデイ、松尾葉子考証 三浦環永遠の蝶々夫人 三浦環 畑中 良輔 著小林 裕子 著真鍋 和子,吉岡 しげ美,牧野 節子,宮 淑子 著田辺 久之 著高橋 巌夫 著(発行元 音楽之友社オフィス・ラドンナ,四谷ラウンド〔発売〕岩崎書店近代文芸社春秋社 ’09’01’00’95’95発行)

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20世紀日本人名事典 「三浦環」の解説

三浦 環
ミウラ タマキ

明治〜昭和期の声楽家(ソプラノ)



生年
明治17(1884)年2月22日

没年
昭和21(1946)年5月26日

出生地
東京府芝区(現・東京都港区)

旧姓(旧名)
柴田,藤井

学歴〔年〕
東京音楽学校(現・東京芸術大学)〔明治37年〕卒

経歴
音楽学校ではピアノを滝廉太郎、声楽を幸田延に学ぶ。在学中の明治36年日本人による初のオペラ公演、グルックの「オルフェオとエウリディーチェ」に主演。同年陸軍軍医藤井善一と結婚する。37年卒業後は母校の教壇に立ったが、40年に夫の仙台転勤を機に離婚。44年新開場の帝劇にプリマ兼音楽教師として招かれるが、間もなく退職。大正2年医学士三浦政太郎と結婚、翌年夫とともに欧州に留学した。4年第1次世界大戦で空襲下のロンドンで「蝶々夫人」に初出演したところ大絶賛を博した。その後は欧米各地の大劇場で公演、“マダム・ミウラの「蝶々」はシャリアピンの「ボリス」、パブロワの「瀕死の白鳥」とともに世界の3大芸術”とまで言われるようになる。昭和11年にシチリアで2000回目の「蝶々夫人」上演をしたのを機に帰国、2001回目を翌年歌舞伎座で演じた。他の当たり役に「ボエーム」のミミ、「イリス」のイリスなどがある。帰国後は後進の指導にも力を入れた。

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朝日日本歴史人物事典 「三浦環」の解説

三浦環

没年:昭和21.5.26(1946)
生年:明治17.2.22(1884)
明治から昭和戦前のオペラ歌手(ソプラノ)。歌劇「蝶々夫人」の国際的歌手として著名。東京生まれで,父は日本初の公証人柴田孟甫。東京音楽学校(東京芸大)在学中から,明治36(1903)年の歌劇「オルフェウス」ほかに活躍。卒業後は同校で教職に就くが,音楽家生活のため,入学前に結婚した軍医藤井善一と40年に離婚し話題となる。44年帝国劇場設立で専属となり,三つの創作歌劇などに主演後,帝劇を離れて医師三浦政太郎と結婚。大正3(1914)年夫妻で渡欧し,ロンドンで指揮者ウッドに認められ,独唱会と翌年の「蝶々夫人」主演で,西欧的演奏に比し「新鮮さ」で大成功。渡米してシカゴを最初にアメリカ大陸とのちに欧米の各地で蝶々さんを歌い大活躍し,「イリス」と「お菊夫人」アメリカ初演にも主演した。大正9年政太郎の帰国後も海外にとどまり,同11年の環の一時帰国で伴奏者との関係が話題を醸す。昭和4(1929)年政太郎死去。7年までに2000回(おそらくアリアだけの演奏も含む)の「蝶々夫人」を終えて帰国。その後は11,12年の「蝶々夫人」公演のほか,門下生とのオペラ数回と,演奏会,放送,レコードなどに活躍。21年4月15日に最後の放送録音をして,40日後に腹部腫瘍(おそらく癌)で死去した。当時の日本の音楽界で図抜けた才能・識見・業績にもかかわらず,生来の率直で飾らぬ性行が誤解を生み,国内での晩年は比較的に不遇だった。吉本明光編『お蝶夫人』のほかに著書2冊とSP録音のレコード多数がある。

(増井敬二)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三浦環」の意味・わかりやすい解説

三浦環
みうらたまき
(1884―1946)

ソプラノ歌手。旧姓柴田(しばた)。明治17年2月22日、東京に生まれる。1903年(明治36)東京音楽学校在学中、同校の奏楽堂で、日本人による最初のオペラ公演、グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』でエウリディーチェ役を歌った。翌年卒業後、母校の助教授となるが、11年、帝国劇場歌劇部の主席歌手として迎えられる。13年(大正2)三浦政太郎と結婚。翌年5月渡欧し、ロンドンで指揮者ウッド卿(きょう)にみいだされ、同年秋、同地で演奏会を開き人気を博した。15年、ロシアの名歌手ロージンとプッチーニ作曲『蝶々夫人(ちょうちょうふじん)』を歌い大好評。以後、欧米各国で20年間に2000回にわたり蝶々さんを演じた。その明澄甘美な歌声は、作曲者のプッチーニに「わが夢」と激賛されるほどであった。35年(昭和10)帰国し、翌年、2001回目の『蝶々夫人』演奏会を歌舞伎(かぶき)座で開催。以後、死去までの10年間は日本で演奏・教育活動を行い、昭和21年5月26日、東京で死去した。

[寺崎裕則]

『瀬戸内晴美著『お蝶夫人』(講談社文庫)』


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改訂新版 世界大百科事典 「三浦環」の意味・わかりやすい解説

三浦環 (みうらたまき)
生没年:1884-1946(明治17-昭和21)

ソプラノ歌手。蝶々夫人を当り役として,国際的に活躍し,日本の演奏家の秘められた可能性を内外に強く印象づけた先覚者。1904年東京音楽学校卒業,同校助教授を務めたのち帝国劇場歌劇部で活躍。14年渡欧し,翌15年ロンドンで《蝶々夫人》に出演。16年シカゴ・オペラに招かれて渡米,18年にはメトロポリタン歌劇場でも蝶々夫人を歌った。その後欧米の歌劇場に出演,国際的歌手として名を上げた。36年帰国。《蝶々夫人》の主役を2000回以上演ずるという記録の持主であり,《世界のオペラ》(1912),《歌劇お蝶夫人》(1937)の著書もある。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「三浦環」の意味・わかりやすい解説

三浦環【みうらたまき】

ソプラノ歌手。東京生れ。旧姓柴田。東京音楽学校卒。在学中の1903年日本人による初のオペラ公演(グルックの《オルフェオとエウリディーチェ》)に出演。1914年渡欧し,翌年ロンドンでデビュー,1918年カルーゾーとシカゴで共演するなど活躍。《蝶々夫人》の主役として有名で,出演は2000回にのぼる。著書に《世界のオペラ》(1912年),訳書に《歌劇お蝶夫人》(1937年)がある。
→関連項目石井漠

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三浦環」の意味・わかりやすい解説

三浦環
みうらたまき

[生]1884.2.22. 東京
[没]1946.5.26. 東京
ソプラノ歌手。日本で最初の国際的なプリマドンナとして活躍。1904年東京音楽学校卒業。在学中日本人による最初の歌劇『オルフォイス』 (クリストフ・ウィリバルト・グルック作曲の『オルフェオとエウリディーチェ』) の主役となる。母校の助教授を経て帝劇オペラで活躍。1914年ドイツに留学,欧米各地で『蝶々夫人』に 2000回出演するなど人気を博した。『蝶々夫人』の訳詩も手がけた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三浦環」の解説

三浦環 みうら-たまき

1884-1946 明治-昭和時代のソプラノ歌手。
明治17年2月22日生まれ。東京音楽学校(現東京芸大)在学中,明治36年日本初のオペラ公演に参加。同校助教授,帝劇歌劇部をへて大正3年夫三浦政太郎とともに渡欧。翌年ロンドンで「蝶々(ちょうちょう)夫人」をうたって好評を博し,以後昭和10年の帰国までに欧米各地で2000回出演を記録した。昭和21年5月26日死去。63歳。東京出身。旧姓は柴田。著作に「歌劇お蝶夫人」。
【格言など】日本は文化では何一つ一等国の仲間入りをしてない(「自叙伝」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三浦環」の解説

三浦環
みうらたまき

1884.2.22~1946.5.26

明治~昭和期のソプラノ歌手。東京都出身。旧姓柴田。日本オペラ創成期のプリマドンナ。1904年(明治37)東京音楽学校卒。在学中の1903年歌劇「オルフォイス」に出演。研究科修了後母校の助教授,10年帝劇歌劇部の教師となる。15年(大正4)から欧米各地で「蝶々夫人」を演じて好評を博し,イタリアで作曲者プッチーニの知遇を得た。35年(昭和10)イタリアのパレルモで2000回出演の記録をつくって帰国,以後後進の指導にあたった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「三浦環」の解説

三浦環
みうらたまき

1884〜1946
明治〜昭和期の声楽家
東京の生まれ。東京音楽学校卒。ドイツ留学後,1911年帝国劇場専属のソプラノ歌手として日本で最初のオペラを上演。のちヨーロッパ・アメリカ各地にオペラ『蝶々夫人』をもって巡演し,世界的名声を博した。

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367日誕生日大事典 「三浦環」の解説

三浦 環 (みうら たまき)

生年月日:1884年2月22日
明治時代-昭和時代のソプラノ歌手
1946年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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