丸木俊(読み)マルキ トシ

20世紀日本人名事典 「丸木俊」の解説

丸木 俊
マルキ トシ

昭和・平成期の洋画家,童画家



生年
明治45(1912)年2月11日

没年
平成12(2000)年1月13日

出生地
北海道雨竜郡秩父別町

本名
丸木 俊子(マルキ トシコ)

旧姓(旧名)
赤松 俊子(アカマツ トシコ)

学歴〔年〕
女子美術専門学校(現・女子美術大学)西洋画科〔昭和8年〕卒

主な受賞名〔年〕
国際平和文化賞〔昭和27年〕「原爆の図」,世界絵本原画展賞国際賞〔昭和46年〕,バチェルダー賞〔昭和58年〕「ひろしまピカ」,小学館絵画賞(第32回)〔昭和58年〕「みなまた海のこえ」,講談社出版文化賞(絵本賞)〔昭和60年〕「おきなわ島のこえ」,マサチューセッツ芸術大学名誉博士号〔昭和63年〕,エイボン女性年度賞(女性大賞)〔平成7年〕,朝日賞(平7年度)〔平成8年〕,赤い鳥文学賞(特別賞)〔平成12年〕

経歴
明治45年北海道秩父別町の寺に生まれた。昭和13年モスクワに留学。帰国後二科展などに出品する。16年シュールリアリスム集団・美術文化協会に参加、同年日本画家丸木位里と結婚。20年8月原爆投下の直後に位里の故郷広島市に帰り、悲劇目撃。23年から位里とともに大作「原爆の図」共同制作に入る。25年日本美術会のアンデパンダン展に「原爆の図・第1部 幽霊」を発表、以後連作を続け、27年国際平和文化賞金賞を受賞。41年埼玉県東松山市に移り住み、42年自宅隣に“原爆の図丸木美術館”を開設。47年「原爆の図・第14部」、57年「原爆の図・第15部 長崎」を完成した。他に「南京大虐殺の図」「アウシュビッツの図」「水俣の図」「沖縄戦」「足尾鉱毒」などの共同制作を手がけた。俊には童画の著作も多く、絵本「ひろしまのピカ」は世界13ケ国で翻訳出版され、46年チェコの世界絵本原画展で国際賞を受賞した。平成7年位里没後も創作を続け、8年スケッチ旅行でヨーロッパに3ケ月間滞在するなど最後まで創作意欲を失わなかった。11年姪で養女のひさ子と絵本「どんぶらっこ すっこっこ」を出版。他の著書に「女絵かきの誕生」など。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「丸木俊」の意味・わかりやすい解説

丸木俊【まるきとし】

洋画家。本名俊子,旧姓赤松。北海道生れ。女子美術専門学校(現,女子美術大学)卒業後,千葉県の小学校代用教員となる。1941年に丸木位里(いり)と結婚。1953年に夫と協同制作した《原爆の図》で国際平和賞ゴールド・メダル賞を受賞。なお,1945年8月6日に広島,さらに同月9日に長崎へ原爆が投下されるが,その数日後に疎開先から位里,続いて俊が広島に入っており,3年後に《原爆の図》の制作を開始することになる。その他の協同作品として《南京大虐殺の図》《アウシュビッツの図》《水俣の図》《沖縄戦の図》などがある。1967年には埼玉県東松山市に原爆の図丸木美術館を開設し,反戦・平和運動を続けた。単独作の絵本として《ひろしまのピカ》がある。なお,《原爆の図》は第1部〈幽霊〉から第15部〈長崎〉までの15部からなり,長崎原爆資料館に寄贈された第15部を除き,原爆の図丸木美術館で常設展示されている。→原子爆弾

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「丸木俊」の解説

丸木俊 まるき-とし

1912-2000 昭和-平成時代の洋画家。
明治45年2月11日生まれ。丸木位里(いり)の妻。原爆投下直後の広島を体験。夫とともに昭和23年から「原爆の図」をえがきはじめ,52年までに全15部を完成させる。その間の27年国際平和文化賞受賞。作品はほかに「水俣の図」「沖縄戦の図」,絵本「ひろしまのピカ」,自伝「女絵かきの誕生」など。平成12年1月13日死去。87歳。北海道出身。女子美術専門学校(現女子美大)卒。旧姓は赤松。本名は俊子。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「丸木俊」の解説

丸木 俊 (まるき とし)

生年月日:1912年2月11日
昭和時代;平成時代の洋画家
2000年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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