日本大百科全書(ニッポニカ) 「小城藩」の意味・わかりやすい解説
小城藩
おぎはん
肥前国(佐賀県)、小城に置かれた佐賀藩の支藩。領主鍋島(なべしま)氏7万3250石。鍋島直茂(なおしげ)が隠居(いんきょ)分として領していた定米1万3063石余の地を、1617年(元和3)その子勝茂(佐賀藩主)の長男元茂が相続し、藩内に自立的に所領をつくったことに由来する。当初、直茂より83人、勝茂より77人の家臣を譲られ、これが家臣団の中軸をなした。佐賀本藩では、1683年(天和3)に「三家格式」が定められ、3家(小城、蓮池(はすのいけ)、鹿島(かしま)の3支藩)は隠居、家督、官位、参勤などについては、本藩の承認が必要とされた。それゆえ、支藩ではあるが、本藩の規制を強く受けて自立できず、藩法も本藩のものが基礎となり、大庄屋(おおじょうや)も本藩の任命であった。年貢担当の石庄屋、夫役(ぶやく)担当の点役庄屋の2庄屋が置かれた。藩校は1787年(天明7)に興譲館(こうじょうかん)が設けられたが、武士の子弟のみの入館で、嫡子は15歳より24歳の間に寄宿舎に入り、食費は藩で賄った(二男以下は半額を自弁)。税制も本藩とほぼ同じで、地米(じまい)といわれる徴租体制がとられ、これが給高や村高を表す場合の基準になった。戊辰(ぼしん)戦争には本藩の佐賀藩とともに東征した。
廃藩置県によって小城県になり、のち伊万里(いまり)県に併合された。この伊万里県が佐賀県となった。
[長野 暹]
『『小城町史』(1974・小城町)』