デジタル大辞泉
「平田銕胤」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
Sponserd by 
ひらた‐かねたね【平田銕胤】
- 江戸末期の国学者、神道家。名は鉄胤とも書く。伊予国(愛媛県)の人。旧姓碧川(みどりかわ)。平田篤胤の養子。篤胤の没後、京都荘厳院に家塾を開く。維新後、大学大博士・大教正・侍講などを歴任。主著「祝詞正訓」。寛政一一~明治一三年(一七九九‐一八八〇)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
Sponserd by 
平田銕胤 (ひらたかねたね)
生没年:1799-1880(寛政11-明治13)
江戸後期の国学者。伊予新谷藩碧川術門八の子。初め名は篤実,のち銕胤と改める。通称は内蔵介,のち大角。平田篤胤に学び,その養子となる。篤胤没後もその家学を祖述し維持した。明治維新後は参与神祇事務局判事,内国事務局判事,大学大博士を歴任。宗教,教育面で政府内平田派の総帥として重きをなした。明治天皇の侍講もつとめる。その門人をすべて篤胤没後の門人としたことは有名。著書に《毀誉相半書》など。
執筆者:南 啓治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
Sponserd by 
平田銕胤
ひらたかねたね
[生]寛政11(1799).伊予
[没]1880.10.25.
幕末~明治の国学者,神道学者。鉄胤とも書く。伊予新谷藩士碧川某の子で初め篤真という。通称は内蔵介,のちに大角。平田篤胤門に入り,その娘婿となり,師の家学を受けて,忠実にこれを伝えた。明治維新後,神祇事務局判事,内国事務局判事を経て明治2 (1869) 年に明治天皇の侍講となり,のち大学大博士から大教正に補せられた。『毀誉相半書』 (34) の編纂がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 
平田銕胤 ひらた-かねたね
1799-1880 江戸後期-明治時代の国学者。
寛政11年生まれ。平田篤胤(あつたね)に入門,その娘婿となる。篤胤没後は平田学派の維持につとめ,おおくの門人をあつめる。維新後は神祇(じんぎ)事務局判事,明治天皇侍講などをへて大教正となった。明治13年10月5日死去。82歳。伊予(いよ)(愛媛県)出身。本姓は碧川。初名は篤実。通称は内蔵介,大角。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
Sponserd by 
平田 銕胤 (ひらた かねたね)
生年月日:1799年11月6日
江戸時代;明治時代の国学者;神道家
1880年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
Sponserd by 