徳川昭武(読み)とくがわあきたけ

精選版 日本国語大辞典 「徳川昭武」の意味・読み・例文・類語

とくがわ‐あきたけ【徳川昭武】

  1. 水戸藩主。斉昭の子。慶応二年(一八六六)将軍徳川慶喜の名代として、パリの世界大博覧会に参加。帰国後、水戸藩主となり、新政府に協力箱館戦争に参加した。版籍奉還で水戸藩知事。のち、北海道開拓事業に貢献した。嘉永六~明治四三年(一八五三‐一九一〇

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「徳川昭武」の解説

徳川 昭武
トクガワ アキタケ


肩書
水戸藩知事

生年月日
嘉永6年9月24日(1853年)

出生地
江戸

経歴
徳川斉昭の18子。慶応3年徳川幕府がフランスの招きによりパリ万国博覧会使節を派遣する際、将軍慶喜の名代として渡仏。明治元年幕府倒壊の報を受けて帰国、同年慶篤の嗣となり水戸藩主を相続。2年新政府に協力して箱館戦争に功をあげ、版籍奉還で水戸藩知事となる。また北海道開拓に着手天塩国(上川支庁の北半と留萌支庁全域)を管理した。4年水戸藩知事を免ぜられ、10年フランスに留学、14年帰国後麝香間祇候となった。

没年月日
明治43年7月3日

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改訂新版 世界大百科事典 「徳川昭武」の意味・わかりやすい解説

徳川昭武 (とくがわあきたけ)
生没年:1853-1910(嘉永6-明治43)

明治初年の水戸藩主,のち水戸藩知事。徳川斉昭の18子。1866年(慶応2)三卿の一つ清水家を相続。67年パリで開かれた万国博覧会に,将軍徳川慶喜の名代として参列し,スイスオランダベルギーイタリアイギリス各国を歴訪し,再びパリへ戻って留学した。幕府滅亡の報をうけて68年に帰国し,同年,慶篤のあとを受けて最後の水戸藩主となった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳川昭武」の意味・わかりやすい解説

徳川昭武
とくがわあきたけ

[生]嘉永6(1853).9.24. 水戸
[没]1910.7.3. 東京
幕末の水戸藩主。民部公子ともいう。斉昭の子。一時,清水家を継いで民部大輔となった。慶応3 (1867) 年パリ万国博覧会の日本代表として将軍慶喜の代りに派遣され,外国奉行竹本隼人正,渋沢篤太夫 (栄一) ら多数の幕臣を連れて渡仏,同国で留学していたが,政変の報を聞いて帰国し,水戸藩主慶篤の跡を襲封。新政府に従って奥羽,箱館戦争 (→五稜郭の戦い ) に参加した。版籍奉還により水戸藩知事。一時,北海道開拓政策に協力して天塩 (てしお) 5郡の開拓を監督。死後,節公の名を贈られた。侯爵。従一位勲一等。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「徳川昭武」の解説

徳川昭武 とくがわ-あきたけ

1853-1910 幕末-明治時代の大名,華族。
嘉永(かえい)6年9月24日生まれ。徳川斉昭(なりあき)の18男。慶応2年三卿(さんきょう)のひとつ清水家をつぐ。3年パリ万国博覧会に将軍徳川慶喜(よしのぶ)の名代として参列。ひきつづきフランスで留学生活をおくる。明治元年11月帰国,最後の水戸藩主となった。宮中出仕などをへて,晩年は茨城県で植林事業にあたった。明治43年7月3日死去。58歳。初名は昭徳(あきのり)。字(あざな)は子明。号は鑾山(らんざん)。

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