日本大百科全書(ニッポニカ) 「松平家忠」の意味・わかりやすい解説
松平家忠
まつだいらいえただ
(1547―1582)
安土桃山時代の武将で、徳川家康の家臣。父は三河国深溝(ふこうず)松平氏の伊忠(これただ)、母は鵜殿長持(うどのながもち)の娘。1575年(天正3)の長篠(ながしの)合戦のおりに父が戦死して家督を継ぐ。遠江国(とおとうみのくに)高天神城(たかてんじんじょう)をめぐる武田勝頼との攻防では、しばしば牧野原城(まきのはらじょう)に在番した。その後も、1582年の甲斐武田氏攻め、1584年の小牧・長久手の戦い、1590年の小田原北条氏攻めなどに従軍する。同年家康の関東転封(てんぽう)により、武蔵国忍城(おしじょう)1万石に封ぜられ、下総国(しもうさのくに)上代城(かじろじょう)、同小見川城(おみがわじょう)と変わった。1599年(慶長4)に伏見城の守備を命ぜられ、翌年7月、関ヶ原の合戦の前哨戦で西軍の攻撃を受けて戦死した。堀や石垣普請など土木技術に優れ、1577年(天正5)10月から1594年(文禄3)12月までが残されている『家忠日記』は、この時代の基本史料である。
[本多隆成]
『竹内理三編『増補 続史料大成 第19巻』(1979・臨川書店)』▽『盛本昌広著『松平家忠日記』(1999・角川書店)』▽『大嶌聖子著「『家忠日記』の末尾記事」(『ぶい&ぶい16』所収)』