松本楓湖(読み)マツモト フウコ

20世紀日本人名事典 「松本楓湖」の解説

松本 楓湖
マツモト フウコ

明治・大正期の日本画家



生年
天保11年9月4日(1840年)

没年
大正12(1923)年6月22日

出生地
常陸国河内郡寺内村(茨城県)

本名
松本 敬忠(マツモト タカタダ)

別名
幼名=藤四郎,通称=藤吉郎,別号=洋峨,永峨,安雅堂

経歴
父は医者松本宗庵。嘉永6年14歳で江戸に出て、沖一峨、のち佐竹永海、さらに菊地容斎に師事維新の頃、国事に奔走したこともあって、国士肌の気概題材にあらわれており、特に歴史画、合戦画を得意とした。明治14年東洋絵画会を結成。同年宮内省命で「幼学綱要」、21年「婦女鑑」の挿絵を描き、28年第4回内国勧業博覧会出品の「蒙古襲来及碧蹄館」で著名となった。31年日本美術院創立時の顧問、40年文展審査員、大正8年帝国美術院会員。他の代表作に「長年奉帝」「静女舞」など。門下今村紫紅、高橋広湖、速水御舟らが出た。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松本楓湖」の意味・わかりやすい解説

松本楓湖
まつもとふうこ
(1840―1923)

明治・大正の日本画家。常陸(ひたち)国河内郡寺内(てらうち)村(茨城県稲敷(いなしき)市)に生まれる。本名敬忠(たかただ)。江戸琳派(りんぱ)の沖一峨(おきいちが)、文晁(ぶんちょう)派の佐竹永海(さたけえいかい)に学び、のち菊池容斎(ようさい)に師事する。初め『幼学綱要(ようがくこうよう)』『婦女鑑(ふじょかがみ)』ほか読本(よみほん)・雑誌類の挿絵を数多く手がけ、明治期挿絵界に大きな影響を与えた。1895年(明治28)第4回内国勧業博覧会に『蒙古襲来(もうこしゅうらい)・碧蹄館(へきていかん)』を出品。1898年岡倉天心(てんしん)らの日本美術院創立に際しては正員としてこれに参加した。翌年の第7回絵画共進会には天心、橋本雅邦(がほう)らとともに審査員となり、また1907年(明治40)開設の文展でも審査員を歴任した。同年東京勧業博覧会に『名和長年奉帝図(なわながとしほうていず)』、1909年第3回文展に『小楠公於四条畷奮戦(しょうなんこうしじょうなわてにふんせんす)』を出品するなど歴史画をよくし、1919年(大正8)帝国美術院会員となる。その安雅堂画塾(あんがどうがじゅく)からは今村紫紅(いまむらしこう)、速水御舟(はやみぎょしゅう)ら多くの俊才が輩出した。

[二階堂充]

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朝日日本歴史人物事典 「松本楓湖」の解説

松本楓湖

没年:大正12.6.22(1923)
生年:天保11.9.4(1840.9.29)
明治大正期の日本画家。常陸国(茨城県)小野村生まれ。幼名藤四郎のち敬忠。嘉永6(1853)年江戸に出て,初め沖一峨,のち佐竹永海に学ぶ。明治1(1868)年菊池容斎の『前賢故実』をみて容斎に入門し,歴史人物画を学ぶ。一時輸出陶器下絵を描き,また雑誌や新聞に多くの挿絵を制作。自ら『日本歴史画報』の編集主任も務めた。日本画会,日本美術院,巽画会などに関係したが,その門下から今村紫紅,速水御舟ら再興日本美術院を担う重要作家が多く輩出したことは,特筆に値する。大正8(1919)年帝国美術院会員となる。

(佐藤道信)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松本楓湖」の解説

松本楓湖 まつもと-ふうこ

1840-1923 明治-大正時代の日本画家。
天保(てんぽう)11年9月4日生まれ。沖一峨(いちが),佐竹永海,菊池容斎にまなび,歴史画や挿絵をかいた。日本美術院創設にくわわり,文展審査員,帝国美術院会員となる。安雅堂画塾をひらき,今村紫紅,速水御舟(はやみ-ぎょしゅう)らをそだてた。大正12年6月22日死去。84歳。常陸(ひたち)(茨城県)出身。本名は敬忠。別号に洋峨,永峨。代表作に「蒙古(もうこ)襲来・碧蹄(へきてい)館」「静女舞」。

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367日誕生日大事典 「松本楓湖」の解説

松本 楓湖 (まつもと ふうこ)

生年月日:1840年9月4日
明治時代の日本画家日
1923年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報