もとは一般的によい知らせを意味し、戦いの勝利の知らせとか、子供の誕生の知らせなどに用いられた古典ギリシア語「エウアンゲリオン」euaggelion(eu〈よい〉+aggelion〈知らせ〉)の訳語である。『旧約聖書』ではヘブライ語「バーサル」bāsarという動詞の訳語として「福音を宣(の)べ伝える」(「イザヤ書」61章1〈口語訳聖書〉)が一度だけ出てくる。この語はまた「よき訪れ」(「イザヤ書」40章9、41章27、52章7)という訳語で出ている。これらは、イスラエルの民がバビロン捕囚からイスラエルの神ヤーウェによって解放され、母国に帰って、ヤーウェを王とするという救いと平和の到来の知らせである。
旧約から新約に移る中間時代にあっては、メシヤによる救いの時がユダヤ人によって待望されていた。このことが実現されることがユダヤ人にとってまさに「福音」であった。
イエス・キリストがくるすこし前にバプテスマのヨハネはこのような時が近づいていることを宣べ伝え、その時が終末的審判によって始まることを強調し、人々に悔い改めを勧めた(「マタイ伝福音書」3章1~12)。『新約聖書』には「福音」euaggelionという語は多く用いられている。福音書ではイエス・キリストは「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(「マルコ伝福音書」1章15)と宣べ伝えた。それは、悪魔の支配が打ち破られ、神の支配が開始されることである。主イエスは、その頭に高価な香油を注いだ女に対して、自分の死に言及してから、「この福音」といった(「マタイ伝福音書」26章13)。この福音は事実、主イエスの十字架での死と死人のなかから復活によって初めて明らかにされた。「使徒行伝(ぎょうでん)」以下においては、福音の内容は、主イエスが宣べ伝えた神の国の福音というよりは、主イエス・キリストの受肉・死・復活のできごとにおいて罪の贖(あがな)いが成就(じょうじゅ)され、キリストを信じる者にあって、神との永遠の交わりが回復されたことが福音として語られている(「ロマ書」1章3~4、「コリント書I」1章18、15章12~19)。
したがって「キリストの福音」(「ロマ書」15章19、「コリント書Ⅱ」2章12、「ピリピ書」1章27)、神の福音(「ロマ書」1章1、「ペテロ書I」4章17)、「イエスによる罪の赦(ゆる)しの福音」(「使徒行伝」13章38)、「和解の福音」(「コリント書Ⅱ」5章19)などのように、福音が、その特色を表すことばによって修飾されて用いられている。
なお、福音は律法と対立するものとして語られている。神の救いにあずかる道として福音と律法が取り上げられ、新しい契約である福音がくることによって、初めの契約である律法は古いものとされた(「ヘブル書」8章6~13、「コリント書Ⅱ」3章6~11)。律法は、人が神の要求を充(み)たすことによって神の祝福が得られる道であり、それに対し、福音とは神がそのひとり子を罪人の身代りに十字架上で罰することによって救いの道を備え、人は神の要求を充たし得ないままで、ただイエス・キリストを信じることによって、神の恵みにより神の祝福にあずかれる道である(「ロマ書」3章20~28)。
律法は人に罪を自覚させ、人をキリストによる救いに導くものである(「ロマ書」3章20~31、「ガラテヤ書」2章16、3章10、11、24)。福音は単なる人のことばでなく、イエス・キリストを信じる者に救いを得させる「神の力」の一面がある(「ロマ書」1章16、「コリント書I」1章18)。
[野口 誠]
元来はギリシア語euangelionで語義は〈よい知らせ〉。古典ギリシア文献では,たとえば戦勝の知らせを指して用いられる。ローマ時代には,皇帝を神的存在とみなし(皇帝礼拝),その即位等の知らせを〈よい知らせ〉と呼ぶことが行われた。旧約聖書では,この語に対応するヘブライ語名詞の用例には見るべきものがないが,同じ語根の動詞から出た〈喜びの使者〉の,とくに《イザヤ書》52章7節(前6世紀後半)での用例は,新約聖書の〈福音〉との関連で注目を要する。それは,新バビロニアに捕らえられた同胞の帰還を待ち望むエルサレムの住民が,ついに,本隊に先立って帰還を告げる〈喜びの使者〉を山の上に見いだした喜びを記し,使者は〈平和を知らせ,幸いを告げ,救いを知らせ〉〈神は王となった〉と宣言した,と述べる。神が〈即位〉したことにより,平和,幸い,救いの支配する,それまでとは質的に異なる新しい時代が始まる,それがここでいう〈よい知らせ〉の内容である。
新約では〈福音〉は主として福音書(《ヨハネによる福音書》を除く)とパウロに出る。福音書ではそれはイエスの語った言葉の中で使われることが多いが,二次的に持ち込まれた場合が多く,彼自身がこの語を用いた確証はない。ここでは〈福音〉はイエスの言葉と行動を通して実現しつつある神の支配を内容としている。なお〈福音書〉と訳される語も原語では〈福音〉と同じである。福音書はイエスの生涯,その言行を記しているが,この用語法は〈福音〉の内容をその点に見いだしている。ただしこの用語法の初出は後2世紀初めである。新約での〈福音〉の用例はパウロにもっとも多く,しかもそれはイエスの死直後に成立したキリスト教の最初期の用法を大筋において継承している。ここでは〈福音〉は死と復活を中心とするキリストのできごとを主内容とする。それは人々に救済をもたらし,人々を信仰へと促す。パウロ自身は〈福音〉を律法と対立的にとらえる点に特徴を持つ。
執筆者:佐竹 明
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イエス・キリストによってもたらされた神からの喜びの使信。この思想はすでに旧約聖書,特にイザヤ書によって神の使者により告げられる喜びの訪れとして表明されているが,イエスは自己の宣教活動をイザヤの預言の成就と理解し,それをとおして神の国が実現するとした。パウロによると,福音の内容はイエス・キリストの事実であり,特に彼の死と復活に結びついた救いの出来事と説いた。キリスト教史上,パウロ的な福音の概念を継受し,明確にしたのはルターで,したがって彼によって創始されたプロテスタントの信仰は福音主義と呼ばれることもある。
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…後2世紀以後の呼称で,イエスの言葉と業(わざ)を相互に連関させ,その死にいたるまでを叙述する文書を指す。最古の《マルコによる福音書》は後70年ころ,《マタイによる福音書》と《ルカによる福音書》が80‐90年,《ヨハネによる福音書》が100年ころの成立と考えられる。〈……による福音書〉という語法には,元来一つであるべきイエスの救いの〈福音〉を異なる複数の視点から表現するものという意味が含まれる。…
※「福音」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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