キリスト教倫理学および聖書学ではこの語は多義的に用いられる。前者で最も広義に用いられる場合は,〈福音に対立する〉否定的な意味で用いられ,ヨーロッパ,アメリカではルター派の系統にその傾向が強くみられる。カルバン派では律法の第三用法と称して積極的に位置づけ,意味づける。また,福音=新約聖書と対立させ,律法=旧約聖書の意味に用いる場合もある。より狭義に用いる場合は,旧約聖書内の〈律法〉,つまり旧約聖書の最初の五書(モーセ五書)の別名として,とくにユダヤ教で用いられ,〈トーラーTorah〉ともいわれる。その場合は,〈律法(トーラー)〉〈預言者(ネビーイーム)〉〈諸書(ケスービーム)〉という三区分の一つとして用いられる。最も狭い意味で用いる場合には,五書に保存されているさまざまの法律集,祭儀規定,倫理規定を指す場合と,これらと並ぶ一つの広義での〈法〉の類型をトーラーと呼ぶ場合とがある。その場合,トーラーとは,ヘブライ語ヤーラー(示す,教示する)という動詞に由来する名詞であり,古代イスラエル社会の指導者であった祭司,預言者,知者,長老などが必要に応じて教示した個々の指示を意味した。複数の教示は〈トーロース〉と呼んだ。祭司が民衆の問いに答えて与えるトーラーが最も有名であるが,決して,祭司の独占物ではなかった。これと並んで民衆の生活を指導した法に,誡命(デバーリーム,ホーク),法律・判例(ミシュパーティーム),命令(ミツバー)などがあった。
これら各種の法は,神との契約関係の中に生きた古代イスラエルの民がこの契約の構成内容ないし条項として受け取り,神の恩恵に対する応答として喜んで服すべきものと考えられ,契約締結のための先行条件ではなかった。これら各種の複雑な法が統括され〈ハットーラー〉(the Law)と定冠詞付きで呼ばれるようになったのは,王国の滅亡直前ないし直後,《申命記》の後代の文書においてであり,この時期に各種の法,教えの集成がなされ,包括的にハットーラー(律法)と呼称され,その性格にも大きな変化が生じた。国の滅亡が,諸種の法の前提秩序であった契約の神による廃棄と解されると,民は〈律法〉を厳守することによって,かつての前提秩序であった契約の再建を図った。これが〈律法〉による教団の成立であり,〈律法主義〉の誕生といわれ,エズラに始まる。キリスト教は,この律法主義の束縛を神の子の死による贖(あがな)いによって解放し,律法を福音の下に置いて生かすと主張するが,ユダヤ教は,律法は束縛するものではなく,物語,詩,系図などによる広い〈教え〉であり,神の〈啓示〉と解する。
執筆者:左近 淑
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「モーセはシナイで律法(トーラー)を受けた」(ミシュナ・アボット1―1)はユダヤ教の律法に関する重要な章句であるが、ここでいう律法は「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の五書のほかに、のちにミシュナに集大成された口伝律法をも含むとするのがユダヤ教の伝統的な解釈である。
律法と訳されるトーラーは「教え、指示」を意味する語で、内容的には宗教的法規、道徳的規範、社会的、政治的倫理のすべてを包括している。「申命記」7章6節以下によれば、イスラエルの民は神の聖なる民であり、神の慈しみによって諸民族のなかからとくに選び出された。それゆえ、神を愛しその命令を守る者を、子々孫々に至るまで神は守護する。したがって命令と定めと掟(おきて)を守って行わねばならない、という。律法は神と民とのこうした契約関係を背景にして存在しており、神の聖性に対応して聖なる民となるための道である。
また律法の道徳面には正義と公正という二つの基本的原理がうかがえる。所有、生存、居住、労働、人権等の基本的権利が主張されるとともに、生活手段や庇護(ひご)者をもたぬ未亡人および孤児、多くは避難民である他国人、さらには貧困者など、社会的弱者に対する特別な配慮が義務として要請されている。たとえば、畑の刈り入れに際しては隅の一部を残し、落ち穂はそのままに放置して、貧者や避難民の自由に任す。日雇人の日当を遅配させない。貧窮者には無利子で金を貸す。未亡人や孤児を困らせるようなことをしてはならない、など。ここには「あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい。わたしは主である」(「レビ記」19章18)にみられるように、単に社会の秩序維持を目的とする規範を超えた宗教思想が根底に横たわっている。
時代による社会の変質は、成文律法の適用に細則と新解釈を必要とした。これらが口伝律法を生み出していくことになった。
[石川耕一郎]
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… 伝説によるとアブラハムがメルキゼデクから天界の秘密を伝授されたという。またモーセは神の啓示を受けたのち,それを〈律法(トーラー)〉に記したが,どうしても文字では書き表せない部分をカバラとして後世に伝えたという。最古のカバラは〈神の玉座もしくは戦車(メルカーバー)〉として知られている。…
…【山折 哲雄】
【ヘブライズムの神】
古代イスラエル宗教,ユダヤ教,キリスト教,さらにイスラム教の系譜は,ふつう(唯)一神教といわれる。経典では旧約聖書(ユダヤ教では〈律法・預言者・諸書〉略してタナハTanakh),新約聖書,さらにコーランに示される。ヘブライズムの唯一神の特徴は,ギリシア思想における哲学的・思弁的宇宙原理や原始的自然宗教における畏怖の対象と異なるとともに,直接の環境世界をなす古代オリエント宗教の多神教における宇宙論的至高神とも異なり,特定の人間・社会に対する〈かかわり〉と〈働き〉の中に見られる。…
…後4世紀末に〈エルサレム・タルムードJerusalem Talmud〉(別名〈パレスティナ・タルムードPalestinian Talmud〉),その100年後に〈バビロニア・タルムードBabylonian Talmud〉が成立した。これら両タルムードは,200年ころ総主教ユダ(イェフダ)Judah ha‐Nasiが編纂したミシュナをめぐってユダヤ人律法学者が数百年間積み重ねた議論の集大成で,ヘブライ語で書かれている。事実,タルムードの本文には,ミシュナの各節と,それに関する学者たちの議論と解釈を記録したゲマラGemara(アラム語で原意は〈完結〉)が交互に配置されている。…
…
[生涯]
イエスとほぼ同じころ,小アジア,キリキアの首都タルソ(タルソス)で,ユダヤ人の家庭に生まれた。律法に熱心なパリサイ派の一員として成人し,ユダヤ人でありながら律法をおろそかにするキリスト教徒を迫害したが,あるとき突然回心を体験し,それ以後とくに異邦人に福音を伝えるキリスト教の伝道者として活動した。当初はシリアのアンテオケ(アンティオキア)教会で伝道に従事し,いわゆるエルサレム会議(おそらく48年)ではアンテオケ教会の代表として,異邦人信徒に律法を守る義務を課そうとする動きに反対した。…
…その起源は前2世紀にさかのぼる。本来,平信徒の運動で,この派に属する律法学者が指導的な位置を占めた。口頭での父祖伝承をも含めて律法を日常生活の諸局面へ適合させるため〈合理化〉(M.ウェーバー)する一方,ダビデの家系のメシアの待望,復活信仰,最後の審判など旧約聖書の枠を超える教義も有した。…
…ギリシア語ペンタテウコスpentateuchos(〈五つの巻物〉の意)の訳であって,旧約聖書の最初の五つの書物,つまり《創世記》《出エジプト記》《レビ記》《民数記》《申命記》の総称。この呼称は後1世紀ごろから登場するが,ユダヤ教では〈律法(トーラー)〉と呼んだ。古代イスラエル民族の揺籃の時代を,天地創造の場面設定から説き起こし,世界と人類の諸問題を堕落物語,カインの兄弟殺し,ノアの洪水物語,バベルの塔建設による人類の傲慢などの神話,口碑を用いて明らかにし(《創世記》1~11),次いで,アブラハム,イサク,ヤコブというイスラエルの族長物語を置いて,この人類の悲劇性に対する答としての神による選びの使命を明らかにする(《創世記》12~50)。…
…この契約に基づき,主はイスラエルの〈唯一の神〉,イスラエルは主の〈選民〉となった。〈シナイ契約〉を確認するために,モーセを仲保者として与えられた律法は,民族的・宗教的共同体として成立したイスラエルの生き方を決定する基本法となった。 前13世紀末に,イスラエル人はカナンに侵入して〈約束の地〉に定着したが,前1000年ころ,ユダ族出身のダビデが王となり,シリア・パレスティナ全域にまたがる大帝国を建設し,エルサレムを首都に定めた。…
※「律法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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