江戸時代、武家地の辻番(つじばん)に対し、大都会の町地に設けられた自警組織の一つ。初め地主らが町内を守ったので、この名称が生まれたという。またそのための常設小屋をもさし、これは自身番屋、番屋とよばれた。江戸では、当初の地主自身の勤番が、のちには地主、店借(たながり)の別なく町民の回り持ちになり、大通りの角地に、決まりでは9尺2間の番屋(実際には2間に3間ぐらいはあったという)に詰めた。原則として1町1番屋で、1850年(嘉永3)には江戸に994軒を数えた。普通は、家主2人、番人1人、店番2人の5人で、昼間は半減して、2~3人。小さな町では家主、番人、店番各1人の3人であった。事務は町触(まちぶれ)の伝達や火の番が主で、交代で町内を巡回して警備に努め、不審な人物がいれば、捕らえておいて廻(まわ)り方同心に引き渡した。番屋は、町同心が容疑者に対し予審を行う場所にも用いられた。
1721年(享保6)に書役(かきやく)という町内の計算事務を行う職ができると、この書役や雇番人に町の仕事を代勤させるようになった。彼らには町からの給料のほかに店番銭(たなばんせん)が払われたため、町内負担のはずの番屋の修繕費用も番人の出費となる場合もあり、また番屋株と称する権利の売買が行われたり、番屋に酒食を持ち込んで町内の寄合会合に使用する風潮に対し、たびたび綱紀の乱れが戒められた。とはいえ、町方の警備維持にこの自身番制度の果たした役割は大きく、1869年(明治2)まで続いた。
[稲垣史生]
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近世,村方や町方が設けて維持した共同体の集会・治安維持制度,あるいはその施設。公用・雑務の処理,火の用心,橋の上・河岸端の警備などにあたった。とくに都市域に広範にみられる。木戸番とは異なり,本来は百姓や町人自身が勤めた。江戸の中心部では町に居住している家持が少なかったため,家持町人の代わりに,町屋敷の管理者である家守(やもり)が勤めた。江戸全体で自身番屋(自身番が詰める番屋)は1850年(嘉永3)には994カ所存在した。その役割は,火の用心,橋の上・河岸端の治安維持などであった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…辻番所を設け,辻番人を置いたが,辻番という言葉は,その辻番所,辻番人の略称でもあるとともに,辻番をすることの意味ももっていた。江戸では武家方が設けたものを辻番,町方で設けたものを自身番と区別して呼んだ。江戸以外では必ずしもこのような区別をしていない。…
…定火消の櫓には昼夜の別なく2人の見張番が立ち,火災を発見するとつるした太鼓を打ち鳴らしたが,大名火消は板木(はんぎ),町方は半鐘であった。享保年間(1716‐36)には10町に一つずつ火の見櫓が設けられ,櫓のない町には自身番屋の上に火の見梯子が設けられた。防火策として火の見櫓は画期的なものではあったが,たとえ町方が先に火災を発見しても,定火消の太鼓が鳴らぬかぎり,半鐘を鳴らすことは許されなかったという。…
…なお京都では,非人身分の番人が木戸番にあたっていた。このような恒常的なものに加えて自身番が行われる時がある。自身番とは本来,家持が自分で勤めることを原則としていた。…
※「自身番」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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