江戸時代,おもに城下町に設けられた治安維持のための施設。辻番所を設け,辻番人を置いたが,辻番という言葉は,その辻番所,辻番人の略称でもあるとともに,辻番をすることの意味ももっていた。江戸では武家方が設けたものを辻番,町方で設けたものを自身番と区別して呼んだ。江戸以外では必ずしもこのような区別をしていない。江戸の辻番は,1ヵ所の辻番所に詰める辻番人の人数を,これを設置した武家の石高に応じて定めていた。会津若松の辻番は町で設けたものであるが,だいたい1ヵ所に2人のようである。江戸における辻番の職務は,辻番所の戸をあけておき不寝番をし,受持ちの場所を見回り,狼藉者・負傷者・挙動不審の者を留め置いてその主人に引き渡す,といった治安維持の目的から出たものであったが,後になると川端の辻番に対し,停泊する船が定めの日数を超えていないかどうか,堀や川へ塵芥を捨てる者がいないかなどを監視するといった事項も加わった。会津若松では,毎夜九つ(0時),八つ(2時)の2回,組中に〈御用心〉を触れ回り,流浪の者があれば,その住所を尋ねたうえで次の辻番所へ継送りするといった職務があった。江戸の辻番は設置者によって,公儀辻番(幕府が設置する),一手持(いつてもち)辻番(1軒の大名が設ける),組合辻番(大名・旗本など近隣の屋敷が共同で設ける)と区別し,その設置者が管理費を負担した。町方で設けた自身番は,その町が町入用(ちよういりよう)で支弁した。会津若松では,辻番人の給分,辻番所の油銭,番所普請の費用などを,数ヵ町で編成した組が負担した。江戸では後になると辻番請負人が発生し,武家方の委託を受けて辻番の管理に当たった。辻番の請負制度は,請負人が管理費を節減して利益をあげようとしたために,とかく管理がおろそかになり,幕府はしばしば法令を出してこれを取り締まった。
執筆者:伊藤 好一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸時代、横行した辻斬(つじぎ)り防止の目的で、江戸の武家の間にもたれた自警組織。1629年(寛永6)武家屋敷の辻々に辻番所設置が義務づけられたことに始まる(町方の管理は自身番)。幕府が直接設けた公儀辻番、一大名だけで維持する一手持辻番、大名や旗本数家共同の組合または寄合辻番(町人の請負が許された)がある。普通は屋敷の塀を切り開いて建てた間口二間(約3.6メートル)、奥行九尺(約2.7メートル)の辻番所に捕物(とりもの)三つ道具を備え、昼夜4、5名が詰める。辻斬りだけでなく辻々の捨て子、変死、喧嘩(けんか)も取り扱い、幕府の御目付(おめつけ)に上申してその指図を受けた。しかし対象が町人であれば町奉行(ぶぎょう)所に渡した。泰平の世が続くと事件も減少し、規定どおりの職務を遂行しない辻番が増えた。
[稲垣史生]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
辻番所とも。近世都市に治安維持体制の一環として設定された施設。道路上の番所とそこに詰める番人からなる。江戸では負担者によって,幕府による公儀辻番,町による町の辻番(自身番),大名・旗本による武家方辻番の3種にわけられる。このうち武家方辻番は元文年間に936カ所あった。設置と維持は屋敷拝領者に対して課せられた役であり,幕府の目付が管轄した。武家方辻番の成立は寛永期で,一手持辻番と組合辻番の2種類があった。機能は,担当区域の不審者や喧嘩の当事者などの留置,担当区域の病人・酒酔人の保護,捨子の処置,死体・捨物の処理,事故処理,馬の保護など。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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