ニュー・レフト(読み)にゅーれふと(英語表記)New Left

翻訳|New Left

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ニュー・レフト」の意味・わかりやすい解説

ニュー・レフト
にゅーれふと
New Left

1950年代後半から60年代後半にかけて、多くの先進資本主義国において、高度経済成長下の体制的安定によって生み出された「大衆社会」的状況あるいは「管理社会」的状況に対して、学生を中心とした青年層の「反乱」が相次いだが、彼らの「反乱」は支配体制にだけではなく、「伝統的左翼」に対しても向けられたものであった。彼らによれば、現代資本主義は技術の高度な発展によって変貌(へんぼう)し、労働者階級を含めての人々の多数は日常生活を享受し、欲望を充足しうるとともに、形式的に政治参加もできるのである。このような「体制内化」した労働者階級は現行秩序の「絶対的否定者」ではありえず、社会変革のエトスを有するものは体制外にはみ出た部分である。したがって、彼らが着目するのは、キューバ革命ラテンアメリカのゲリラ闘争、アルジェリア解放運動、ベトナム解放闘争などに示された先進資本主義諸国の枠外の荒々しいエネルギーであり、また資本主義国内においては、「生理的に抑圧されている」民族的少数者、失業者など、および人間的な真の自律性への要求をもつ学生、青年、知識人などである。ニュー・レフトの登場は、高度資本主義の体制的安定という仮象下に広がる「根深い構造上の諸問題から生じる症状」の一つであるとはいえ、またそれだけに、彼らのイデオロギー組織形態戦術は、現代資本主義下での矛盾のあり方、各国の支配体制の構造や「伝統的左翼」の存在形態などの諸状況に規定されて、過渡的で流動的であり、多元的にとらえられなければならない。

 イギリスでは、スエズ事件、スターリン批判ハンガリー事件などを契機として、1959年に『New Left Review』誌(ニュー・レフトという用語はここに由来する)が発刊されるが、彼らが目ざしたものは、「思想運動」movement of ideasを通じて左翼の活性化を図り、社会主義へのイギリスの道を設定することである。「真に大衆的で知的な社会主義運動の神経中枢」の必要は、独自の組織建設ではなく、労働運動の既存組織と対応し、これら既存組織に思想的影響を与えていこうとするものであった。アメリカのニュー・レフトは、「学生非暴力統合委員会」「民主社会をめざす学生組織」「北部学生運動」「南部学生組織委員会」など学生を主力とした組織として現れた。彼らの主たる活動平和運動市民権運動(ベトナム戦争の停止と黒人の市民権を目ざす)であったが、この運動を通じて「伝統的左翼」との対話も認められる。

 なお、近年の西欧のニュー・レフトについて注目されることは、急速に展開されている反核運動を契機として、広範な人々の統一した運動の一翼を担ってきていることである。

[村上義和]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ニュー・レフト」の意味・わかりやすい解説

ニュー・レフト
new left

新左翼。 1956年のスターリン批判とハンガリー革命を契機として登場した先進資本主義国における左翼新潮流。ハンガリー民衆蜂起に対するソ連軍による血の弾圧は,各国共産党に大きな打撃を与え,公認共産党に代る新たな共産主義勢力を必然的に生み出したが,この新たな左翼勢力をニュー・レフトと呼ぶ。日本には 57年に日本トロツキスト連盟が結成され,それが母体となって革命的共産主義者同盟 (革共同) が生れ,58年には日本共産党の学生細胞を中心とした共産主義者同盟 (共産同) が結成された。しかし,ニュー・レフトが世界的に登場するのは,65年のベトナム戦争の激化を契機としてアメリカ,フランス,西ドイツ (当時) ,日本などでベトナム反戦闘争が盛上がり,新たな政治潮流として国際的に浮び上がったときである。しかし 70年を境に,各国のニュー・レフトは党派的対立やテロリズム戦略の過激化から一般の支持を失った。その後特に思想・文化のうえで,いわゆるポストモダニズムへ傾斜する者も多くみられる。

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