カリブ海の小島キューバで起こった革命。ゲリラ戦による武装闘争で独裁政権を打倒したのち、ラテンアメリカで最初の社会主義革命へと発展した。既存の共産党の指導によらずに社会主義革命を達成したこのユニークな革命は、ゲリラ戦で権力を奪取するという独特な革命の方法や、ラテンアメリカでは社会主義革命によってのみ対外的従属や低開発の状態から真に脱却できるという理論を提起したことにより、その後のラテンアメリカの革命運動に大きな影響を及ぼした。
革命の社会的、経済的背景となったのは、この国が20世紀初めにアメリカの「保護国」として独立して以来、実質的にアメリカの植民地支配下に置かれてきた状況である。アメリカ政府は独立に際してキューバの憲法に、必要とあればいつでも内外政に干渉できることを規定した条項(プラット修正)の挿入を強制し、事実その条項が1934年に撤回されるまで数次にわたってこの国に軍事干渉を行った。一方、19世紀末以来、砂糖産業を中心に行われたアメリカの対キューバ投資は独立後も増大し続けたため、キューバの経済は著しく対米従属的な砂糖モノカルチュア経済となった。革命前、大部分の土地はアメリカ人やキューバ人の大地主の手に集中し、土地を所有しない小作人や農業労働者の数は農民の約80%を占めた。サトウキビの収穫期以外の時期は「死の季節」とよばれ、多くの農民や労働者が失業し、貧困や飢餓で苦しんだ。彼らを吸収するための工業化もアメリカ製品の流入によって遮られた。1940年の憲法は土地改革や工業化を定めていたが、歴代政府のもとでそれらが実施されぬうちに、1952年3月、軍事クーデターでフルヘンシオ・バチスタが政権につき、植民地的支配の新たな局面が現れた。
革命の第一段階は、1953年7月26日、フィデル・カストロが率いる武装した青年たちがバチスタ打倒のための反乱に立ち上がったことにより始まった。この「モンカダ兵営襲撃」は失敗し、カストロらは捕らえられ裁判で有罪判決を受けた。やがて恩赦で釈放された彼らはメキシコに渡り、そこで革命組織「7月26日運動」を結成した。1956年末「グランマ」号に乗ってキューバに侵入した彼らは、オリエンテ州のシエラ・マエストラ山脈を舞台にゲリラ戦による新たな革命戦争を開始した。彼らは農民たちを闘争に参加させるとともに、広範な階層よりなる反バチスタ統一戦線を組織して闘いを進め、1959年1月1日、アメリカ政府からも見離され孤立無援となったバチスタをついに政権の座から追放した。革命後最初の政権は、中産階級を含む穏健な政府であったが、実権は革命軍の総司令官であったカストロが握っており、1959年5月に第一次農地改革法を制定してキューバ社会の構造改革に着手するや、穏健派が革命から脱落し始めるとともに、アメリカ政府との関係も悪化し、1960年10月のアメリカ人資産の全面国有化、1961年1月のアメリカとの国交断絶を経て、ついに1961年4月に社会主義革命を宣言するに至った。
[加茂雄三 2016年12月12日]
『加茂雄三編『ドキュメント現代史11 キューバ革命』(1973・平凡社)』▽『K・S・カロル著、弥永康夫訳『カストロの道――ゲリラから権力へ』(1972・読売新聞社)』▽『ハーバート・マシューズ著、加茂雄三訳『フィデル・カストロ――反乱と革命の創造力』(1971・紀伊國屋書店)』
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(伊藤千尋 朝日新聞記者 / 2007年)
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1950年代のキューバで,アメリカの支持を受けた独裁体制の打倒を目標とした武装闘争の結果としての革命政権の樹立と,その後の社会主義社会建設の試みをさす。34年以来キューバを支配していた独裁者バティスタに対するカストロらの反政府ゲリラ活動が成功して,59年1月に革命政権が成立した。その後,農地改革などを進めようとする政府とアメリカとの間で対立が激化したため,革命政府は急速にソ連ブロックに接近し,社会主義への傾斜を強めた。61年には反カストロ勢力によるキューバ進攻が失敗し,62年にはキューバ危機が生じた。その後カストロが76年の新憲法にもとづいて国家の実権を握り,キューバは海外の革命運動を支援し,非同盟運動で主導的な役割を果たしたが,90年代初頭の共産圏の崩壊で打撃を受けた。社会主義体制を維持しながら,経済の自由化,外資の導入,観光業の振興などにより困難を克服しようとしている。
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…このような合衆国の覇権政策に対して,この地域諸国はハイチでのカコと呼ばれる武装農民の反乱(1918)や,ドミニカ共和国での軍事占領に対する抵抗,キューバでの33年の民族主義的な革命の勃発など,さまざまな抵抗を示したが,結局これらは封じ込められ,1930年代から50年代にかけて,キューバ,ハイチ,ドミニカ共和国などでは合衆国の権益を守護する独裁者たちが出現した。カリブ海政策
[地域としての課題]
このような合衆国によるヘゲモニーを打破する最初の動きとなったのが1959年のキューバ革命であり,それは独裁者の打倒,反米民族主義の闘い,社会主義革命という急進的な道を歩んで,カリブ海のみならずラテン・アメリカ現代史全般にとっての一大画期となった。一方,イギリス領植民地でも1930年代から労働運動の高揚や,政党の結成などを通じて自治を要求する動きが強まり,第2次世界大戦後には,西インド諸島連邦(1958‐62)が解体して60年代以降独立国が続々と誕生した。…
…その結果,ガーナ(1957)をはじめとする多数のアフリカ諸国があいついで独立し,とりわけ独立が集中した1960年は〈アフリカの年〉と呼ばれた。そしてキューバ革命(1959)とその社会主義宣言は,ラテン・アメリカがアメリカの〈裏庭〉から脱しはじめたという歴史の流れの転換を示すものであり,チリの挫折(1973年,人民連合政権に対する軍事クーデタ)を経たとはいえ,ニカラグア革命(1979)にみられるように解放運動の流れは一貫して継続している。 しかしながらその一方では,政治的独立後も旧本国との経済的従属関係を持続している〈新植民地〉も多数存在している。…
… 問題の〈ブーム〉が生じた背景には,第2次世界大戦後に起こった都市化,それに伴う中産階級の増加,各地の大学が核となった読者層の拡大,スペイン内戦の結果としての多くの作家・知識人たちの亡命,といった有利な条件があった。バルセロナを中心にしたスペイン出版業界の積極的な支援という要因も忘れるわけにはいかないし,さらに,59年に独裁者バティスタを倒して社会主義政権を樹立させたキューバ革命によって与えられた,好ましい刺激も見のがすことはできない。革命に対立するもの以外はすべて可とする寛大な文芸政策を打ち出したカストロ政権は,文化機関である〈アメリカの家〉の創設や同名の文芸誌の発刊を通じて,互いに孤立していた大陸全体の作家たちの交流を増進すると同時に,それ以後に目ざましい活躍をみせることになる新人たちを多数送り出したのである。…
※「キューバ革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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