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ラテンアメリカ ラテンアメリカ Latin America

翻訳|Latin America

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ラテンアメリカ
ラテンアメリカ
Latin America

スペイン語では América latina。アメリカ大陸を地理的位置に基づいて,北アメリカ,中央 (中部) アメリカ,南アメリカに3区分するが,住民の民族構成,言語,文化などに基づいて分ける場合は,アングロ・サクソン系の人々が主導権を握るカナダアメリカ合衆国アングロアメリカと呼ぶのに対し,ラテン系の人々が中心をなすメキシコ以南の地域をラテンアメリカと呼ぶ。

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デジタル大辞泉の解説

ラテン‐アメリカ(Latin America)

中南米で、スペインポルトガルなどの文化を背景とする国々の総称。19世紀までは主にスペインの植民地だった。北のアングロアメリカに対する。L.A.

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監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
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大辞林 第三版の解説

ラテンアメリカ【Latin America】

メキシコ・中央アメリカ・南アメリカ・西インド諸島などの地域の総称。スペイン人・ポルトガル人などが植民し、カトリック・ラテン系言語などにより特徴づけられる。北のアングロ-アメリカに対していう。中南米。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ラテンアメリカ
らてんあめりか
Latin America

総論


 アメリカ大陸の北半球中緯度から南半球にかけて大きく広がる、33の独立国と11の非独立領土からなる地域の総称。北はリオ・グランデ川とフロリダ海峡を隔ててアメリカ合衆国に面し、東は大西洋を隔ててアフリカ大陸とヨーロッパに比較的近い距離にあり、こうした地理的な位置がラテンアメリカの歴史の展開に大きな影響を与えてきた。[中川文雄]
名称の由来と定義
16世紀から19世紀初めまでの植民地時代、この地域はインディアスあるいはアメリカとよばれていた。19世紀初頭にスペイン植民地の大部分が独立を遂げようとしたとき、独立指導者たちは、自分たちが解放しようとしている土地をアメリカの名でよんだ。独立後、植民地臭の強いインディアスの名は捨てられたが、共通の歴史を有するこの国家群を何とよぶかについて、一致した名はなかった。1850年代のなかば、旧スペイン領諸国の圧政と政争から逃れ、パリに移り住んだ知識人たちは、アメリカ合衆国の膨張の前に、それぞれの祖国の存立が危ぶまれていたことに憂慮し、自分たちの国家群をよぶのに、アングロ・サクソン列強の脅威に抵抗できる力を内に潜めた新しい名称、しかも、叙情的で文明の香りを感じさせ、自分たちが文明の中心フランスと一体であることを示す名称を求めた。それがラテンアメリカ(アメリカ・ラティーナ)であった。56年、パリ在住のコロンビア人ホセ・マリア・トレス・カイセードが書いた詩『二つのアメリカ』のなかでこの名称を使ったのが最初とされる。メキシコに帝国的拡大を図ったナポレオン3世とそれに近いフランスの知識人たちは、このラテンアメリカの名称を世界に広げるのに大きな役割を果たした。20世紀に入るとラテンアメリカの呼称はラテンアメリカ諸国でますます広く受け入れられていったが、スペインの知識人はこれに憤慨し、イスパノ・アメリカの名称の正当性を主張した。そうした抵抗にもかかわらず、ラテンアメリカの名称は普遍化し、国連などの国際機関もすべてこの名称を採用するに至った。
 1960年ごろまで、ラテンアメリカの範囲は、ラテン文化の伝統を引き継ぐ20の共和国にほぼ限られていた。すなわち、スペイン系の18か国とブラジル、ハイチであり、それは「ラテン」の名と矛盾しない文化と伝統を有する国々であった。ところが、1962年以後旧イギリス領から12、旧オランダ領から一つの新興独立国が生まれ、これが国連などでラテンアメリカ地域の一員として扱われることになった。これらの新興独立国は、かつてスペインやフランスの支配を受けた時代があり、民俗文化にその影響をとどめているが、公式次元での言語、文化、制度は非ラテン系であり、その歴史的体験も本来のラテンアメリカ20か国とは異なっており、当事国自身の側でもラテンアメリカに加えられることを好まない傾向がある。そこでこうした新興独立国の立場を考慮して、これら諸国をラテンアメリカのなかに加えずに、別個にカリブ海地域とよび、それまで一つの地域として扱ってきたラテンアメリカを「ラテンアメリカとカリブ海」と分けて表現する傾向が近年強まっている。国連その他の国際機関や各国外務省、また、学究的な出版物もこの表現を使うことが多くなってきている。[中川文雄]
歴史的・文化的特質
ラテンアメリカと世界のほかの地域とを対比したとき特徴的なことは、ラテンアメリカでは垂直的な断層があるものの、ほぼ均質な言語と文化が多数の国にまたがって広がっており、それが共有されていることである。ラテンアメリカでは域内国家間および国内地方間で、また、階層間で大きな違いがあるにもかかわらず、言語と宗教を中心とした文化伝統の面で、一つの共通軸が貫かれている。ラテンアメリカはヨーロッパ世界と非ヨーロッパ世界の両方の要素を内包している。ラテンアメリカはヨーロッパ世界の拡大の産物であり、ヨーロッパ文明の大きな影響を受けているが、一方では経済的な低開発と他地域への従属という点で、ほかの新大陸国家と異なり、むしろアジア、アフリカと共通の歴史的発展を遂げた。[中川文雄]

歴史


特徴
ラテンアメリカはヨーロッパ世界と非ヨーロッパ世界の両方の要素を内包し、両者の掛け橋的存在である点で、世界の諸文明圏のなかで特異な地位にある。その歴史も、ヨーロッパ世界の拡大の過程という一面と、その拡大の結果生み出された周辺としてのラテンアメリカが陥った政治的・経済的従属から自らを解き放つため、それを支配するヨーロッパ的世界の中心に対する反逆の過程という他の一面とから成り立っている。
 ラテンアメリカは近世・近代におけるヨーロッパ文明の拡大の直接の産物であり、その文化的・制度的母胎の最大のものをヨーロッパから受け、また、新大陸という共通の地理的環境での歴史的発展を遂げた点で、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの新大陸国家と共通した歴史を有する。しかし、他の新大陸国家と違って先住民社会の文化や制度を相当に残存させ、それを融合したこと、また、受け継いだヨーロッパ文明は主として近代合理主義以前のそれであったことから、産業文明とは異なった文明へと発展し、一方では経済的な低開発と他地域への従属が深化したことなどの点で、他の新大陸国家と明らかに違った歴史的発展を遂げた。アメリカ合衆国がヨーロッパ的世界の中心となったのと対比的に、ラテンアメリカはその周辺にとどまり、中心であるアメリカの支配に反逆、抵抗するというのがラテンアメリカ現代史の一つの基調であるといえる。
 ラテンアメリカは、また、植民地化と従属、低開発の持続という点で、アジア、アフリカと共通の歴史的体験を有する。しかし、アジア、アフリカは主として19世紀の西欧列強の植民地主義の下で政治的・経済的支配を受けながらも、その固有の文化的伝統を残した。これに対して、ラテンアメリカの植民地化は15~16世紀のスペイン、ポルトガルが国民国家を建設した動きと理念をそのままに拡大する形でなされたから、言語・文化・宗教面での強力なヨーロッパ化を受けた。世界史の流れが、近代でのヨーロッパ世界の非ヨーロッパ世界への優越を終焉(しゅうえん)させ、現代に入って非ヨーロッパ世界が台頭し、世界がもはやヨーロッパ世界中心に動くのをやめるようになったとき、ラテンアメリカは台頭した。しかし、そこにはヨーロッパ世界への帰属感が多分に残されていた。現代におけるラテンアメリカの台頭は、非ヨーロッパ世界の巻き返しという一面をもち、基本的にはその流れに促されながら、他方では、同じヨーロッパ世界内部での、近代においては優位を占めた中心部に対する劣位だった周辺からの巻き返しが、現代になって進行し始めたという一面をもっている。[中川文雄]
歴史の始まりと時代区分
従来、ラテンアメリカの歴史は、15世紀末、ヨーロッパ人がアメリカ大陸を「発見」し、それをヨーロッパ文明の枠の中に引き入れたときに始まると考えられていた。しかし、近年では、その歴史に、ヨーロッパ人到来以前の先住民社会の諸制度が及ぼした影響が再評価を受けるようになり、かつては歴史以前とよばれた新大陸の古代文明の歴史がむしろラテンアメリカ史そのものの必須(ひっす)の一章として扱われるべきだとの考えが強まってきている。一方、今日のラテンアメリカの諸制度を形成するにあたって、もう一つの、しかもより大きな母胎を提供したのはイベリア半島(スペイン、ポルトガル)であり、それゆえに、16世紀に至るまでのイベリア半島の歴史は、ラテンアメリカの淵源(えんげん)として顧みられねばならない。このような異種の文明が接触し、融合の過程が始まる15世紀末以後にラテンアメリカそのものは生まれるわけだが、それ以後の歴史は、まったく異なった大陸で互いに孤立して発展した前記二つの文明の歴史と直接につながっているのであり、そうした複数の、しかも互いに著しく異質な起点を有することこそが、ラテンアメリカ史の独特な性格といえよう。
 時代区分に関しては、従来は、いかなる国家権力の下に置かれたかに従って、次の2時代に大別されていた。
(1)15世紀末から19世紀初めまでの植民地時代、すなわち、新大陸の植民地がスペイン、ポルトガル、フランスの王権の下で統治されていた時代
(2)19世紀初めより今日に至るまでの独立国時代、すなわち、カリブ海地域の少数の植民地・海外県を除いて、一般に新大陸のスペイン、ポルトガル、フランス領植民地は19世紀初めに独立を遂げ、以来、今日まで独立国の地位を保ってきたが、この独立国としての時代
である。これは共和国時代ともよばれる。ブラジル、メキシコ、ハイチで独立後のある期間存在した帝政を例外とみるならば、独立後のラテンアメリカはおおむね共和国であったからである。このように植民地時代と共和国時代に大別する区分の仕方は、もっとも便宜的なものとして広く用いられている。しかし、歴史を国家主権との関連だけでなく、広く経済、社会、文化との関連においてもみようとするときには、次のような区分が可能になろう。
(1)征服前のアメリカ大陸と中世イベリア半島(15世紀末まで)
(2)ヨーロッパ人の到来、先住民征服と植民地諸制度の成立(15世紀末~17世紀末)
(3)18世紀の改革、19世紀独立革命、独立後の混乱期(1700年ごろ~1850年ごろ)
(4)物質的進歩と西欧化の時代(1850年ごろ~1930年ごろ)
(5)現代(1930年代~現在)[中川文雄]
征服前のアメリカ大陸と中世イベリア半島

アメリカ大陸古代文明の特色
アメリカ大陸の先住民インディオの祖先は、いまから3万5000年前から2万年前ぐらいにかけて北東アジアから、当時陸続きであった今日のベーリング海峡を経てアメリカ大陸に移った。こうした人口移動の波は、9000年前にはすでに南アメリカ大陸の南端にまで達していた。15世紀末までに新大陸のあちこちでさまざまな発展段階の文化が生まれたが、それらはその後の歴史との関連では、
(1)主として熱帯高地を中心として栄えた高度な農業生産力と比較的稠密(ちゅうみつ)な人口をもつ階層社会
(2)アメリカ大陸のその他の広大な地域(主として熱帯雨林・サバンナと温帯草原)に存在した狩猟、採集または低度生産力の農業に依存する小部族社会
に大別されよう。
 紀元前3500年ごろに、すでにメキシコ中央高原でトウモロコシの栽培が始まっていたが、前1500年ごろに農業生産力が高まり、非農耕階級が生まれた。南アメリカの中央アンデスにおいても前1200年ごろまでにトウモロコシとジャガイモの栽培が一般化した。こうしてアメリカ大陸の熱帯高原とその隣接地域で、生産性が高く保存がきく穀物であるトウモロコシあるいは凍結によって保存可能となるジャガイモの栽培に経済的基盤を置き、それによって非農耕階級である神官と職人の存在が可能となり、体系的な思想をもつ宗教と優れた芸術が生まれた。比較的稠密な人口集団のなかで経済分業と社会階層の分化が生じ、そうした分化した人口集団を統治するため、アステカ王国、インカ帝国のような高度に中央集権化された国家さえ出現した。
 アメリカ大陸の高度文明は数学、天文学、建築、土木技術などで旧大陸に匹敵する水準を示しながら、冶金(やきん)は発達せず、役畜の使用や車輪の利用を思いつかなかったというような不つり合いな形での発展を遂げた。これは、アメリカ大陸の文明が旧大陸のいかなる文明からもほとんど完全に孤立して発展したためである。こうした不均衡な発展が、のちにアメリカ大陸の高度農業文明がスペイン人の征服の前に、もろくも蹂躙(じゅうりん)される大きな原因となった。階層社会を構成し、権力が集中していたこれら高度農業文明地帯は、スペイン人によって短期間に比較的容易に征服された。しかしその場合、スペイン人は先住民社会の支配機構の多くを残存させて、それを利用し、それとともに先住民の文化と血は、これらの熱帯高地では大きな割合で残された。
 これと反対の運命をたどったのが(2)のその他の広大な地域の先住民であった。この地域の経済活動は元来、狩猟、採集であったが、アマゾン川流域、カリブ海に面した低地では前800年ごろまでに、根茎マニオク(キャッサバ)の栽培が一般化した。しかし、マニオクは保存がきかず、先住民社会で経済的分業は発展しなかったし、高度な階層社会や国家や都市をつくるには至らなかった。
 階層社会が成立していた高度農業文明社会では、スペイン人が新しい支配者になったとき、住民の大多数は新支配者に従順であり、抵抗は少なかった。これと対照的に(2)のその他の広大な地域の小民族集団では、民族が一丸となってスペイン人の征服に抵抗することが多かったし、また、スペイン人から学んだ馬術を利用して戦闘力を高め、長期間にわたりスペイン支配に挑戦したチリのアラウカノ、メキシコ北部のコマンチェーやアパッチのような民族集団も存在した。そのためこれらの地域の先住民社会をイベリア半島人が征服するには長期間を要したし、これら先住民の多くは、イベリア半島人との抗争で絶滅するか、搾取と流行病で人口を激減させられるか、圧倒的なイベリア文明の前に自らの文化の特色を失っていくかの運命にたたされた。[中川文雄]
ラテンアメリカの淵源としての中世イベリア半島
今日のラテンアメリカの諸制度を形成するにあたって、先住民文明よりも、さらに大きな母胎を提供したのはイベリア半島であった。それゆえ、16世紀に至るまでのイベリア半島の歴史は、ラテンアメリカ史の前史として顧みられねばならない。8世紀にアフリカから侵入したアラブ人、ベルベル人のイスラム教徒によってイベリア半島は征服された。半島北端に追い込められたキリスト教徒がイスラム教徒から徐々に国土を回復する運動が、15世紀末までのイベリア半島の歴史を特色づけた。しかし、国土回復運動(レコンキスタ)とよばれるこの運動の過程は、キリスト教徒とイスラム教徒の絶えざる抗争ではなく、むしろ中世のイベリア半島に支配的であったのは両者の共存と相互的な寛容であり、それを通じて両者の文化的・人種的混交がなされた。そのことは、のちにスペイン人、ポルトガル人がアメリカ大陸で先住民や黒人と人種的に混交することを容易にした。
 イベリア半島は中世封建社会の萌芽(ほうが)の段階でイスラム教徒の征服を受けたため、ほかの西ヨーロッパに比べるとその封建制度の基盤が弱体であった。しかも、国土回復運動でキリスト教徒が回復した土地には、通常、新しい都市が建設されたが、この都市の多くは王権に直属した。こうして絶対君主の下に国民国家がほかのヨーロッパ諸国に先駆けてイベリア半島に誕生する気運が促された。まだ中世的秩序が強力な時代に国民国家が生まれ、その指導理念に多分に中世的な秩序や価値が仰がれたことは、その後のスペイン、ポルトガルとその植民地となるラテンアメリカの性格を、中世的秩序が崩壊したのちに本国からの植民がなされたイギリス領の北アメリカ植民地と根本的に異なったものにした。
 1469年、イベリア半島のもっとも強力な2王国カスティーリャとアラゴンの王女と王子が結婚し、スペイン(原名エスパーニャ)という統一国家がほぼ成立した。スペインでは国民国家の成立という大事業を前にして、宗教的・文化的統一を図ろうとする姿勢が著しく強固になった。国民国家の精神的支柱としてカトリックが仰がれ、異端裁判が始まった。中世におけるイベリア半島の宗教的寛大さは捨てられ、ユダヤ人は追放され、また、イスラムからキリスト教徒に改宗した人々の多くも追放され、カトリック教会と王権を中心にして統一された国民国家をつくろうとする気運が15世紀末には著しく高まった。そのような時期にアメリカ大陸がヨーロッパ人によって「発見」され、その征服が開始されたのである。それは、スペイン人がアメリカ大陸の征服を、国土回復運動の、そして、その集大成としての国民国家形成の延長として行うことを意味した。このことが、19世紀のイギリス、フランスによるアジア、アフリカでの植民地経営と違って、16世紀のスペイン人に「新大陸植民地」の徹底したスペイン化、キリスト教化の政策をとらせ、300年という長期間の植民地時代を通じて、その言語、文化、制度を新大陸に深く植え付けさせた。[中川文雄]
ヨーロッパ人の到来と植民地制度の確立

アメリカ大陸の「発見」
ヨーロッパ人のアメリカ大陸への到達は、すでに11世紀に北欧のバイキングによってなされていたと思われるが、それはヨーロッパ社会にもまたアメリカ社会にもなんら衝撃を与えなかったし、継続的な植民を引き起こすだけの歴史的条件を伴っていなかった。その後、ヨーロッパが拡大する条件を備えたときに、アメリカ大陸に到達してそこへの継続的な植民の糸口を開いたのはコロンブスである。
 アジアに達するつもりで大西洋を西に向かって航行したコロンブスは、1492年10月12日、今日の西インド諸島のサン・サルバドル島を「発見」した。すでに人類の居住していたアメリカ大陸への彼の到達を「発見」とよぶことについては、近年、歴史学者の多くが異議を唱え、「二つの文化の出会い」と表現するようになってきている。コロンブスは死ぬまで彼の「発見」した土地をインディアス(それは今日のインド亜大陸だけでなく、日本や中国を含めたアジアの南東部、東部全体の意味に使われていた)の一部と考え、そこの先住民をインディオと名づけた。彼の「発見」した土地が実はヨーロッパ人にとっては未知の新大陸であったことは、1503年イタリア人航海者アメリゴ・ベスプッチによって明らかにされ、その名をとって新大陸はアメリカとよばれることになった。コロンブスによる「発見」後、主としてイスパニョーラ島(ハイチ島)にあって植民地経営にあたっていたスペイン人は、ここを本拠にして1510年前後からカリブ海のほかの島々、メキシコ、南アメリカ大陸の探検と征服に乗り出し、そこに新しい都市を築いた。スペイン人たちは当時のロマンチックで空想的な騎士道物語によって黄金郷の存在を疑わず、彼らの空想と信仰が、その超人的ともみえる勇気とエネルギーの根源になっていた。スペイン人、ポルトガル人が新大陸に植民を開始しだした1500年前後から、スペイン、ポルトガルの新大陸支配が崩壊する19世紀初めまでの約300年間は、一般に植民地時代または副王領時代とよばれる。[中川文雄]
アステカ王国とインカ帝国の征服
1518年からスペイン人はメキシコ湾岸の探検を行っていたが、19年から21年にかけて、キューバを起点としたエルナン・コルテスがアステカ王国を征服した。1524年からインカ帝国の探索を始めたフランシスコ・ピサロは、31年から33年にかけてインカ帝国を征服した。16世紀初めの新大陸の先住民人口は、少なくとも1300万と考えられ、その半数以上がこれらの国に集中していた。近年では、16世紀初頭、アステカ王国は2500万、インカ帝国は1150万の人口を擁したとの説が有力であり、そうした先住民人口はその後の1世紀間で、ヨーロッパとアフリカからもたらされた疫病と破壊、酷使のために数分の1に激減した。
 数百人のスペイン人が、彼らに何万倍する人口の両国を短期間で征服しえたのは、先住民側に白人を神聖視する伝説が存在し、内紛と対立があったからである。さらに旧大陸では当然のことであった戦術やウマの使用に未知であったため、それが大きな心理的衝撃となったこと、また、両国の中枢ともいうべき皇帝がスペイン人の策略によって捕虜にされ、両国の戦士階級の反抗が著しく弱められたことなどによる。スペイン人は両国の戦士階級の抵抗を短期間で壊滅させ、その後は従来の支配組織を利用して従順な農民たちを支配していった。
 アステカ王国、インカ帝国を征服したスペイン人は、さらにグアテマラ高地のマヤ人の王国(1523)、現コロンビアのチブチャ王国(1538)などの、ほかの高文化農耕先住民を征服した。しかし、狩猟、採集、原始的農業の段階の先住民が住む、そのほかの広大な地域のスペイン人による征服と植民は、はるかに時間を要した。[中川文雄]
スペイン植民地の支配機構
スペイン人は先住民の都市を略奪し、先住民文化を破壊し、インディオを大農園や鉱山に送り込んで非人道的に酷使した。そうしたスペイン植民者からインディオを保護しようとする努力がドミニコ会の修道士バルトロメ・デ・ラス・カサス(1474―1566)によってなされ、スペインの王権は、植民者がインディオに及ぼす権利を制限する法律を制定した。しかし、その後もインディオに対する収奪は過酷であった。破壊と搾取を行う反面、スペイン人は都市を建設し、宗教的組織をつくりあげ、スペインの宗教と文化を移植する努力を行った。
 スペインの新大陸植民地の支配機構としてまず案出され、長く影響を残したのがエンコミエンダ制であった。これは、スペイン人植民者のなかの選ばれた者に、その地域を防衛し先住民を教化する義務の代償として、一定数の先住民を割り当て、彼らを労役に徴発する権利を与える制度であった。王室官憲の組織ができあがらない植民地時代初期においては、エンコミエンダの権利を与えられた植民者が、王室の代行として先住民から貢租を徴収した。このようにして、植民者は当初は絶大な権力を先住民に及ぼしたが、その権力は16世紀後半以後、王権によってしだいに制限される方向に向かった。王権が精密な植民地行政組織をつくりあげ、植民者に代行させていた権限を自らの手に収めていったからである。
 植民地には幾段階もの行政機構があり、それがお互いをチェックしあっていたが、それに加わりうる人間は主としてスペイン本国生まれの人間(ペニンスラール)であり、植民地生まれの白人(クリオーリョ)はもっとも下位の行政機構であるカビルドとよばれる市参議会においてのみ有力であった。行政機構の最高位に位するのが副王であり、これは国王の分身として植民地を治める上流貴族出身の高官で、官吏、僧侶(そうりょ)の任免権をもち、国王から発せられた法令の施行に関して、強力な権限と自由裁量権をもっていた。副王はメキシコ(1535)とペルー(1542)に置かれ、新大陸を二分して広い領域を直接統治したが、18世紀にはヌエバ・グラナダ(1717)とラ・プラタ(1776)の副王領が増設された。[中川文雄]
スペイン植民地の教会組織
カトリック教会は王権と結び付いて、多くの地域で植民とスペイン化に重要な役割を占めた。植民地時代の初期には、教会のなかに、先住民の間に真のキリスト教的世界をつくろうとする動きが強くあった。先住民のことばで説教し、インディオを司祭にしようという努力も16世紀なかばまでは続けられた。しかし16世紀後半になると、そうした努力は捨てられ、王権の下で先住民をスペイン化することに伝道の重点が置かれ、教会組織は王権支配と一体化した。1501年と08年の教皇令でローマ教皇庁はスペインの王室に、新大陸での教会の建設と維持、先住民の改宗を行う義務と引き換えに、十分の一税の徴収の代行と僧職の任命権という大幅な権限を与えたが、これはその後、植民地時代を通じて、歴代の教皇とスペイン国王の間で守られた。教会の伝道僧の地道な努力は征服者の力よりも、さらに大きく先住民社会の変容とスペイン化を促した。伝道僧は農工などの物質文化の面においても先住民の生活に大きな変化を与えた。他方、王権の庇護(ひご)下に教会への富の集中は植民地時代末期までに莫大(ばくだい)なものとなった。[中川文雄]
スペイン植民地の経済生活
スペイン植民地の経済は、16世紀には鉱山の開発と新たな農畜産物の導入によって急速に拡大したが、17世紀には先住民人口の減少、鉱山の衰退によって停滞、縮小し、18世紀にふたたび回復拡大をみせた。16世紀なかばに南アメリカ(現在のボリビア)のポトシ、メキシコのサカテカス、グアナフアトなどの銀山が発見され、それらが1557年に完成した水銀アマルガム法の採用によって製錬が容易になり、銀産は急激に上昇し、世界の銀産の大半を占め、それはヨーロッパに運ばれて価格革命を引き起こした。同時に新大陸においては多くの鉱山都市、商業都市が生まれ、なかでも新大陸最大の都市ポトシの繁栄は世界に知れわたった。それらの都市を中心にして、また、本国が求めた貴金属生産を中心にして、植民地経済が展開し、それに刺激されて農牧業、製造業も発展した。17世紀に入ると鉱山の衰退と先住民人口の減少のために経済は停滞し、縮小に向かい、それが回復するのは18世紀になってからであった。
 スペイン人は旧大陸から新たな家畜(ウシ、ウマ、ヒツジ、ブタ)や新たな作物(コムギ、米、サトウキビ)をもたらし、また、征服前は新大陸の一部でしか栽培されていなかった作物を新大陸全体に広めた。彼らは、さらに役畜の利用、鉄器の使用、井戸掘りの技術などをもたらし、それによって農牧に利用される地域は拡大した。
 スペインの重商主義は、植民地の生産を規制して本国の産業の興隆を図るというよりは、通商をスペイン人商人の手に収めておくことに重点が置かれ、植民地が必要とする工業製品は、繊維、ガラス、金属、火薬などに至るまで、高級なものを除いては多くは植民地で製造された。新大陸植民地とヨーロッパとの交易は、王権の厳しい統制下に置かれ、植民地はスペイン本国とのみ交易を行い、ほかのヨーロッパ諸国との交易は許されず、貿易ルートや貿易独占港が指定され、また、特許状を得た特定商人のみが貿易に参加することができた。[中川文雄]
大土地所有制の成立と農民の抵抗
17世紀になって鉱業が衰退するにつれて、植民者の関心は農牧業に移り、土地所有の欲望が大きく促された。王室は植民者に比較的小面積の土地譲渡しか許さず、先住民の土地所有権をむしろ保護しようとしたが、植民者はそうした方策を無視して、先住民の土地を徐々に自己の支配下に収めていき、大土地所有が生まれた。植民者が先住民村落の共有地を徐々に自己の所有下に収めていく一方では、村落にいた多数のインディオが高い租税や鉱山労働への徴発を恐れて、そうしたものから免除される私有地へ逃げ込んだ。こうして土地と人間を吸い込んで拡大したのが私有大農地ラティフンディオであった。ラティフンディオは単なる経済活動の単位ではなく、農民の全生活を支配する自己完結的な小世界であった。大土地所有者にとって土地は権威のシンボルであり、技術革新や資本の投下によって生産性を高めることをせず、もっぱら労働収奪に頼る形態が保持された。非生産的で浪費の性向が強く、労働を軽蔑(けいべつ)し貴族的趣味を有する地主階級が生まれ、彼らの考え方や心情がその後のスペイン植民地とそこから独立した国々の支配階級の価値観を構成した。
 大農地や鉱山で激しい収奪を受け、あるいは先住民村落においても王室の下級官吏からの収奪に苦しんだインディオや混血の農民、黒人奴隷は、植民地時代を通じて数多くの反乱を起こした。それは白人支配者に脅威を与え、支配者側を悩ませたが、いずれも鎮圧された。インディオや黒人が行使しうるいまひとつの抵抗の方法は、イベリア文化の受容を拒否し、彼らの本来の神々を復活させる宗教儀礼や宗教運動を通じて、その内的な世界を守ることであった。[中川文雄]
スペイン植民地の文化
スペインの文化が新大陸に移植されたが、それはイベリア文化の引き写しではなかった。旧大陸では実現していなかったものをまず新大陸において実現しようとする理想主義がそこにあった。いくつかの広場を結ぶ直交する街路の整然とした計画都市が、スペイン本国に先だって新大陸植民地に建設されたのはその一例である。物質文化、儀礼、生活習俗・言語の面で南スペインの影響が圧倒的に強かった。文学、美術などでは、エルシーリャ・イ・スーニガの叙事詩『ラ・アラウカーナ』や修道女フワナ・イネス・デ・ラ・クルスの形而上(けいじじょう)学的な詩や戯曲のような個性的なものも生まれたが、概してスペイン文化の亜流であったといえる。教育は教会の手に握られ、その対象は白人ないしはインディオ貴族の子弟に限られていた。1551年のメキシコ大学、リマのサン・マルコス大学に始まって、大学や高等教育機関は新大陸スペイン植民地で25を数え、神学、法学、医学の教育や研究がなされた。[中川文雄]
ブラジルの植民地時代
ブラジルへのポルトガル人の植民は、スペイン人の新大陸征服に比べると、きわめて遅々としか進行しなかった。1500年ペドロ・アルバレス・カブラルによってブラジルは発見されたが、その後は染料の原料パウ・ブラジル(赤い木の意。ブラジルの名はこれに由来する)を産する程度で、東洋貿易がもたらす富にひかれたポルトガル人はブラジルを比較的無視した。しかし、ポルトガル王はブラジルがフランスから侵略されつつあることを知り、1530年にはフランスの勢力を追い払わせ、いくつかの植民地を建設させた。当時のブラジルは、スペインとポルトガルが1494年に結んだトルデシリャス条約によってほぼ西経50度以東の範囲であったが、ポルトガル国王はこれを功績ある貴族に分割して、土地の使用権、統治権を幾多の特典をつけて世襲的に与えた。スペインの軍事征服と対照的にポルトガルのブラジル植民は商業的意図を有した農業移民であった。
 16世紀後半になると、ヨーロッパでの砂糖の需要が拡大し、ブラジル北東部の海岸地帯に砂糖農園が多く生まれた。砂糖農園では内陸のインディオが奴隷として使役されたが、それは農業労働に質量ともに不十分で、労働力を補うため多数の黒人奴隷がアフリカから移入された。この砂糖農園では、白人農園主を頭に黒人や混血の奴隷がそれに従う家父長的な雰囲気のなかで、白人と黒人の混血が進行し、人種偏見の比較的少ない社会が生まれた。地縁で結び付いた村落共同体よりも、家族や拡大家族のつながりを重視する人間関係の伝統が生まれ、それは、その後のブラジル全体での社会のあり方に大きな影響を与えた。
 一方、ブラジル南部のサン・パウロでは、これという富源もなく、住民は金、銀の探索から、やがて奥地の先住民を奴隷として狩り集めることを生業とするようになった。バンデイラとよばれるこれらの奴隷狩りの冒険者は、隊伍(たいご)を組んで奥地を駆け回り、その足跡は遠くアマゾン地方に及んだ。彼らの探検によって、スペイン人植民者が17世紀以後顧みなかった南アメリカ中央部の森林・サバンナ地帯が、事実上ポルトガルの勢力範囲に入り、ポルトガル領土はトルデシリャス条約で定められたよりもはるか西方に押し広げられた。1750年のマドリード条約、1777年のサン・イルデフォンソ条約によって、今日のブラジルの領土の大きさがほぼ決定された。
 文化面では、植民地時代のブラジルはスペイン植民地に比べて未発達で、植民地に大学はつくられず、印刷所もなく、高等教育はポルトガル本国で行われた。[中川文雄]
18世紀改革・19世紀独立革命・混乱期

18世紀の国際環境と軍人の台頭
1700年スペインのハプスブルク家が断絶し、フランス王家と血縁関係のブルボン王朝が始まった。これによってスペインとフランスの関係は平和的になったが、反面、当時最大の海洋国として勃興(ぼっこう)しつつあったイギリスと敵対関係に入り、植民地においてイギリス海軍の侵略を盛んに受けることになった。植民地防衛のために軍制改革の必要性が主張され、各地に民兵の制度が設けられた。植民地における軍人の地位と権威が高められ、軍人は特殊法廷などの特権を得るようになり、この特権にひかれて植民地生まれの白人の子弟は民兵軍の士官に進んで加わった。これは、武力によって植民地が解放される軍事的基盤を養うことになったが、同時にそれは、独立後の共和国が軍人首領(カウディーリョ)に支配される運命へとつながった。[中川文雄]
経済繁栄と自由貿易への動き
18世紀も1730年代のペスト流行が過ぎると、植民地の人口は着実に増加し、銀産は回復し、商用作物の生産が拡大し、工業面でも繊維、冶金(やきん)、陶芸などが発展した。こうした経済繁栄とイギリスからの市場拡大の要求の前に、啓蒙(けいもう)的な君主カルロス3世は1765年、従来の特許商人の独占による特定ルートの貿易を廃し、スペイン人の一般商人による植民地と本国との自由な貿易と植民地間の貿易を許すことにした。この結果、植民地の都市の経済活動はさらに活発となり、商人と市民階級、そして少数だが中産階級的自由職業人が台頭した。彼らはのちにいっそうの貿易の自由を求めて独立を支持するようになった。カルロス3世による貿易の自由化は主としてスペイン帝国内における自由化であり、外国、とくに産業革命に入ろうとしていたイギリスの商人や産業資本家は、この程度の改革には満足しなかった。彼らはスペイン植民地が自由な市場として開放されることを望み、1810年代に独立運動が勃発すると、それを支援する立場をとった。[中川文雄]
18世紀文化と独立思想
ブルボン王朝の啓蒙的な君主は、植民地の行政を中央集権化し、科学的研究を奨励し、人口状態や経済状態の調査を行わしめた。啓蒙君主による上からの改革と並行して、フランスの啓蒙思想は18世紀後半から植民地の知識人の間に浸透し、権威と伝統に対する批判の目を養い、絶対君主の権力に抗して市民的社会をつくる主張を植民地のなかに生んだ。さらにフランス革命は、フランス植民地のイスパニョーラ島西半分のサン・ドマングで黒人奴隷の反乱を誘発し、優れた軍事指導者トゥーサン・ルーベルチュールに率いられた奴隷軍は、フランス軍やイギリス軍の干渉を退けて、1804年独立を達成しハイチ共和国が誕生した。アメリカ独立革命、フランス革命という二つの大きな市民革命の衝撃を受けても、なお、スペイン植民地では、市民社会をつくろうとする主張が独立ということばに結び付くことはまれであった。ラテンアメリカの独立は、ナポレオンのフランス軍によるイベリア半島の占領によって、ようやく実現の契機を与えられた。[中川文雄]
独立の過程とその性格
1808年、スペイン国王がナポレオンによってとらわれの身とされ、植民地の各地で権力の真空状態が生まれた。従来、植民地行政にほとんど参与の機会を与えられていなかったクリオーリョ(植民地生まれの白人)は、この機に乗じて、国王フェルナンド7世への忠誠を誓いつつも、現地の副王の権威を否定し、自治の表明を行った。1809年から11年にかけて、一部のクリオーリョはさらに進んで独立宣言を行った。1814年ナポレオン戦争が終わってフェルナンド7世が復位したが、植民地人の期待に反して、彼は本国優位の絶対主義体制を復活させようとした。そのため植民地人の自治宣言はスペインからの独立運動へと転換し、武力抗争に発展した。1824年末までに、スペインの支配がきわめて強固であったキューバとプエルト・リコを除いた全新大陸スペイン植民地で独立派が勝利を収めたが、南アメリカの解放と中央アメリカ、メキシコの独立とは、同じ独立とはいってもかなり異なった性格のものであった。
 南アメリカの解放は、ベネズエラとブエノス・アイレスを拠点とし、シモン・ボリーバルとホセ・デ・サン・マルティンを指導者とする貴族的エリートの自由主義者がイギリスの軍事的・経済的援助のもとにスペイン王党軍と戦い、これを打ち破ることによって達成された。一方、メキシコと中央アメリカにおいては、クリオーリョの間に、既成秩序の下で各種の特権を享受していた保守派が強力であった。メキシコでは、独立を希望し、しかも民衆的な基盤にたって社会改革を進めようとする運動が武力抗争に発展したが、クリオーリョの多くはスペイン官憲と協力してこの抗争を鎮圧した。1820年、スペイン本国で自由主義的な憲法が採択されると、それが植民地に波及することを恐れて、保守派が独立に踏み切るという過程がメキシコと中央アメリカではみられた。ここでは、独立とは植民地支配下での特権をめぐるスペイン官憲と植民地生まれの白人の争いという性格を如実に示していた。独立戦争のなかからムラート(白人と黒人の混血)やメスティソ(白人とインディオの混血)が将校として台頭し、そのなかからのちに大統領となる者も幾人かを数えた。しかし、南アメリカでも、中央アメリカ、メキシコでも、インディオ、黒人、混血の大多数は独立戦争の兵士として徴発されたが、独立によって新しい身分を得ることはまれであった。
 スペイン植民地が多大の流血と破壊を経て独立を達成したのと対照的に、ブラジルは平和裏に独立を達成した。1807年、ナポレオン軍の侵入を逃れてポルトガル王室はブラジルに移り、以後、ブラジルは繁栄し、文化的にも興隆し、もはやポルトガルの支配を受けたくないとの感情がブラジル住民の間に生まれた。1822年、ポルトガル本国の議会が、在ブラジルの摂政(せっしょう)である王子ドン・ペドロを本国に召喚しようとしたことを契機に、王子自らが指導権をとりブラジル帝国として独立が達成された。[中川文雄]
反動と無政府の時代(1825~50)
王権がスペイン植民地から追放されると、そのあとに待っていたのは政治的混乱とカウディーリョとよばれる軍人首領による支配であった。非妥協的で強力な自己主張を行うスペイン系アメリカ諸国の支配階級は、彼らの間で文民政治のルールを打ち立てることができず、また旧植民地は1825年から30年までの間に数多くの国に分割された。軍人首領たちの経済思想は保護主義的であり、教会の特権を保持しようとするのが一般的であった。一方、自由主義的知識人はスペイン的伝統を否定し、イギリス、アメリカ、フランスに範を求めた近代国家の建設を求めて論陣を張り、政治活動に加わったが、この時代にその努力が実現をみることは少なかった。
 独立後も帝政の下にあったブラジルが、国土を分裂させることもなく、また、比較的安定した政権の下に秩序を保ったのは、スペイン系諸国と対照的であった。[中川文雄]
独立後の国際関係
1823年、スペインのフェルナンド7世が旧秩序の復興のため、フランス、ロシアなどの神聖同盟諸国に、独立したばかりの旧植民地に武力干渉するよう要求した。しかし、当時の最大の海軍国イギリスは独立によって市場が開放されることを望み、この再征服の意図の前に立ちふさがり、ラテンアメリカの独立の実質的な守護者となった。一方、アメリカ合衆国はその南にある新生の諸国に道義的支援を与えた。1823年12月にモンロー宣言を行い、アメリカ大陸がこれ以上ヨーロッパ諸国の植民地化の対象になりえないという原則を世界に向かって公表した。実際には、1860年代に至るまでアメリカにはヨーロッパ列強のラテンアメリカへの干渉を阻止する力はなく、イギリスは1830年代に新たな領有を広げ、フランス、スペインも短期間であったが幾度か干渉を行った。アメリカは、モンロー宣言以前から新大陸に残存するスペイン植民地に対して領土的拡大を意図していたが、それは、やがて新生の隣国に向けられるに至った。メキシコに対して1836年にテキサスを独立させ、のちにそれを併合し、48年にはメキシコ戦争に勝利して、当時のメキシコ国土の半分を割譲させ、大西洋から太平洋にまで広がる文字どおりの大陸国家となった。また、両洋の結節地点である中央アメリカ地峡への進出が、48年以後アメリカの政府と民間人によって計画されるようになった。
 アメリカのこうした進出に対して、ラテンアメリカ諸国では一部の親ヨーロッパ的・保守的知識人の間で強い批判と警戒心が生まれた。しかし、当時のラテンアメリカ諸国では相互の連帯感が弱く、しかも独立を脅かす主たる敵はアメリカよりもヨーロッパ諸国とみなされた。さらに自由主義者はアメリカを自らが学ぶべきモデルとして崇拝の念を抱いていたこともあって、反米感情は一般に弱く、それが強まるのは20世紀に入ってからであった。
 若いラテンアメリカの諸国がその独立を保持するため、結束して外部の勢力にあたることは、南アメリカ北部の解放者ボリーバルによって提唱されていた。彼は1826年、パナマ市にスペイン系諸国の代表者会議を開き、共同防衛同盟を結成しようとしたが、南アメリカ南部諸国の参加を得られず、その構想は実現しなかった。その後、19世紀中葉に同様の会議が三度にわたって開かれたが、連帯感の弱さと相互の利害対立から失敗に終わった。[中川文雄]
物質的進歩と西欧化の時代

外資と近代技術の導入
独立戦争による疲弊、それに続く独立後の政治的混乱によって、ラテンアメリカ諸国の経済活動は19世紀なかば過ぎまで停滞した。19世紀後半になってヨーロッパでの産業革命の進行と消費生活の変化に伴って、ラテンアメリカはその新たな食糧や原料供給地となることが期待された。1870年以後、ヨーロッパ諸国、とくにイギリスはラテンアメリカの鉄道、港湾の開発に投融資し、新しい鉱山や農場を開拓した。19世紀末になるとアメリカがまずカリブ海地域に対し、ついで第一次世界大戦後は南アメリカに対して経済権益を求めた。
 ラテンアメリカは欧米のための一次産品の生産に特化したが、それは第一次世界大戦終了時までは、ときおりくる小さな不景気を除いてはラテンアメリカ経済を困難に陥れることはなかった。海外市場でのこれら産品への需要の伸びが概して上昇の一途をたどったからである。繁栄がもたらされ、同時に、欧米の資本、近代技術、文化によって、ラテンアメリカの経済、社会、文化が欧米への従属と模倣という方向に向かって大きな変化を遂げた。[中川文雄]
移民の到来
新しい技術の導入と国際市場の拡大によって、それまで無視され、あるいは不可能であった資源の開発が、ラテンアメリカのいくつかの地域で急速に進行した。そうした地域に住民の労働力を動員する新しい形式が生み出されたが、質的にも量的にもとくに高い労働力を必要とした地域には、おりから商品経済の浸透によって農民が追い立てられていた南欧、中東欧からの多数の移民が入った。そのため、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル南部などには従来のイベリア的、閉鎖的な階層社会とは違った開放的、競争的な社会が生まれた。[中川文雄]
政治の安定化と秩序と進歩の哲学
19世紀後半の最初の30年間、ラテンアメリカ諸国の政治はまだ不安定であったが、1850年以前の無秩序の状態から、法と秩序をより尊重する型の軍人や文民の支配へと移行した。自由主義者の主張が保守主義者を抑え、植民地時代から引き継がれた教会や軍部の特権が廃止され、教育を教会から公権力の手に移し、教会資産を解体することがいくつかの国で行われた。1880年以後になると都市で商工業者階級が台頭し、彼らはイギリス・フランス資本のもとにある大地主階級とともに西欧的な文化を積極的に摂取し、秩序と進歩の哲学を信奉し、政治的には比較的安定した時期が、19世紀末から1920年代までのラテンアメリカの多くの国で実現した。[中川文雄]
アメリカの進出とナショナリズム
19世紀末、キューバへのアメリカの経済権益は巨大なものとなり、1898年キューバで独立運動が内戦化するや、アメリカはこれに干渉してスペインに宣戦して勝利を収め、キューバ、プエルト・リコをそれぞれ独立国、属領として勢力圏に加えた。さらに1903年にはパナマをコロンビアから独立させ、ついで10年代に入るとカリブ海、中央アメリカの小国やメキシコの内政に干渉した。このもっとも典型的なヤンキー帝国主義は30年代には善隣外交によって改められるが、その記憶はラテンアメリカ諸国の脳裏に深く刻まれ、強い反米感情を植え付けるに至った。[中川文雄]
第一次世界大戦とラテンアメリカ
アメリカへの不信を反映して、ラテンアメリカ諸国は第一次世界大戦に際し、わずか8か国が対独宣戦布告を行い、残る12か国のうち、5か国が対独断交を行っただけで、アルゼンチン、チリ、メキシコなど7か国は中立を維持した。第一次大戦の結果としてのヨーロッパの没落とアメリカのいっそうの隆盛は、ヨーロッパを精神的故郷とみなしていたラテンアメリカの知識人に大きな衝撃を与え、そのなかから新たな国民文化を志向した文化的ナショナリズムが生まれた。[中川文雄]
現代

現代の起点
メキシコのように、1910年代に早くも社会革命の糸口が切られ、その革命のもたらした変化が今日の制度の母胎になっている国もあるが、一般的には1920年代末までのラテンアメリカ諸国は、19世紀後半以来の近代技術、制度の導入と自由主義哲学に導かれて、外国資本と外国移民による資源の開発と西欧的な文化を志向していた。こうした動向は30年代になって急に消え去ったわけではない。しかし、30年代以後のラテンアメリカには、こうした動向と対立するいま一つの動向、つまり、国民的統合と自立を目ざすとともに、民衆的基盤での福利の増大を実現しようとするナショナリズムを掲げる広義の革命勢力が台頭した。そのきっかけを与えたのは世界大恐慌であった。世界大恐慌によって多くのラテンアメリカ諸国が輸出産業部門、国家財政の面で痛烈な衝撃を受け、外国依存のモノカルチュア経済およびそれを無批判に受け入れてきた過去の考え方に批判の目が向けられた。従来は少数の文人の所有物でしかなかったナショナリズム――ラテン民族の精神的優越を誇る形の汎(はん)ラテン的ナショナリズムないしはユートピア的なインディオ至上主義にかわって、あるいはそれを踏み台として、物質的基盤に根ざした国家を単位とするナショナリズムが生まれ、それはより広い国民層に受け入れられた。
 1930年代までに多くの国で都市、鉱山などに無視できない数の労働者階級と中産階級が生まれ、それは従来の外国資本と直結した寡頭政治に満足しえない政治勢力を形づくった。こうした支持層を背後にしてナショナリズムを旗印にたてたのが、ブラジルのバルガス政権、メキシコのカルデナス政権、すこし遅れて40年代アルゼンチンのペロン政権などの、民衆政治家による強力で国家主義的な政権であった。こうしたナショナリズムの系列は、30年代のメキシコ、ボリビアでの石油国有化、40年代のアルゼンチンの鉄道国有化など、外資支配の産業の国有化を促し、一方、工業化の促進による経済的自立を求めた。[中川文雄]
第二次世界大戦と戦後の秩序
1930年代のアメリカの善隣政策により、ラテンアメリカとアメリカの関係は改善され、第二次世界大戦では最終的にはラテンアメリカのすべての国が枢軸国に対して宣戦を布告した。ラテンアメリカ諸国は民主主義諸国の資源庫として、その産物を低価格で連合国側に供給することを余儀なくされたが、それにしても、戦争の膨大な需要と供給の途絶はラテンアメリカ諸国の経済発展、とくに工業化を刺激した。
 第二次大戦後、1950年代末までのラテンアメリカは、伝統的なクーデターが政治の安定を乱したが、既存秩序をまっこうから否定するような革命や運動はなく、アメリカの圧倒的な支配下に置かれた。グアテマラ、ボリビア、ベネズエラで革命政権が生まれたが、アメリカはそれらを自分の好む方向へと誘導し、あるいは力でそれを殲滅(せんめつ)した。しかし、一次産品価格の低落と人口増加率の急激な高まりから、生活水準が停滞し、それに伴う不満が鬱積(うっせき)した。[中川文雄]
革命と軍部台頭の1960年代、70年代
武力抗争の末、1959年に政権奪取したキューバ革命は、こうした鬱積した問題への解決の一つであるとともに、アメリカによる西半球支配へのまっこうからの挑戦となり、その結果は、ラテンアメリカ諸国の内外での政治抗争を激化させた。多くの国で、キューバ革命の進行に鼓舞され、また、キューバからの支援を受けた左翼革命勢力が農村と都市でのゲリラ戦を試みたが、それらはアメリカの軍事援助で強化された各国の軍に鎮圧され、また、米ソ間の勢力圏の暗黙の了解のもと、武力革命路線は後退した。ただし、中米地域においては、少数の家族による寡頭支配体制を打破すべく、革命勢力による武力抗争が繰り広げられ、エルサルバドルは内戦に入り、一方、ニカラグアでは、79年、ソモサ独裁政権の打倒に成功したサンディニスタ政権の誕生となるが、ここでは、アメリカに支援された反革命勢力コントラとの抗争が内戦と化し、これらの内戦の解決は、ラテンアメリカ全域で民主化志向が強まり、また、冷戦の終結により代理戦争の意味がなくなる90年代初頭にまで引き延ばされた。
 1960年代、70年代、左翼革命勢力の台頭によって危機意識を強めた軍部は、自らの政治的使命を自覚し、政治への介入を強めた。70年代なかばまでに、メキシコ、コスタリカ、カリブ海旧イギリス領諸国らを除いて、ラテンアメリカのほとんどの国が軍事政権支配下に置かれた。そのなかには、ブラジル、ペルー、チリでのように、軍部が長期的、組織的な支配を行い、テクノクラートがそれに協力し、経済、社会の構造に大きな変化が生ずることも起きた。[中川文雄]
経済危機と民主化の80年代
1970年代の世界を揺るがした二度の石油危機では、資源豊かなラテンアメリカ諸国は相対的に有利な立場にあった。その豊かな資源を担保とし、また、抑圧的な政治の下での安定した秩序を売りものにして、ラテンアメリカ諸国は、大規模な経済開発のための資金を先進国の金融機関から借り入れた。しかし、80年代に入って世界的な高金利時代が始まり、かつ、一次産品価格の低迷から、債務返済が不可能となった。82年、メキシコが対外債務の利子支払い不能に陥ると、ラテンアメリカ諸国から資金が急激に海外に流出し、各国が金融危機に直面した。企業倒産、失業、ストライキが顕著となり、経済はマイナス成長に落ち込み、それでいながらハイパー・インフレーション(超インフレ)が進行し、国民生活は困窮した。80年代はラテンアメリカ諸国にとって、経済が著しい後退を示した10年間として、「失われた十年」とよばれた。
 経済運営に失敗した軍事政権は政治運営にも自信をなくし、政権を文民に移譲することが多くの国で起きた。一方、80年代後半になると、世界的な民主化の動きに促されて、文民支配ではあっても、それまで権威主義的な一党による支配、あるいは少数の家族による独裁を続けてきた国々で、複数政党化と選挙結果の尊重が顕著となった。その意味で80年代はラテンアメリカにとって民主化の10年間でもあり、その流れは90年代に入って、さらに強まった。[中川文雄]
ネオ・リベラリズム下の1990年代と残された課題
1980年代に進行した経済破綻(はたん)に対応するため、その後に各国で新たに誕生した政権は、アメリカと国際金融機関との協調による解決を図るべく、従来の保護主義的で国家の介入度の大きい経済方式から、ネオ・リベラリズム(新自由主義)に沿った経済方式に転換した。それは、価格や貿易の自由化、国営企業の民営化、補助金の打ち切り、余剰人員の大幅な整理、などを伴う、経済の安定化と市場化に向けての大きな転換であった。
 そうした転換の結果、ハイパー・インフレーションは抑えられ、経済危機からの脱却にある種の見通しが立つようになった。チリやブラジルのように物価の安定と経済成長の双方に成功した例もみられ、90年代末でのラテンアメリカ経済の将来への見通しは、80年代に比べて相当に明るくなった。
 マクロ経済面での安定は得られたものの、各国に存在する大きな所得格差の是正はなされず、市場原理の強化の下で、富裕者への富の集中と膨大な貧困層との対比は、むしろ強められた。一方、ラテンアメリカ諸国では、1960年代以来の40年間で、広範な領域で大きな社会変化が起きた。都市化、工業化、運輸・通信網の発達、モータリゼーション、テレビの普及、それらに伴った女性の社会参加の高まり、宗教戒律の軽視、性モラルの自由化、既成政党の権威失墜、暴力犯罪の多発などが進行した。それは、一面では居住環境の悪化、生活の質の低下と不安の増大を強めたが、他方では、従来よりも、もっと平等主義的で、住民の権利が主張しうる社会への志向が強まったといえる。[中川文雄]

民族・文化・社会


民族
一般に民族は、「生活様式やわれわれ意識を共有する集団」と定義される。この定義に従えば、現代ラテンアメリカは、いくつかの大きな民族単位に分類できる。また無数の民族単位にも分かれる。このような錯綜(さくそう)がみられるのは、イベリア=キリスト教文化という文化的大伝統のもとに各地域で各集団が独自の小伝統を発達させてきたラテンアメリカでは、人々がレベルの異なるいくつかの民族集団に同時に所属し、時と場所により、いずれかを選択することがありうるからである。そこに観察される多民族性・多重民族意識は、人種混交、文化状況、歴史過程、地域性のすべてを反映している。それだけに、ラテンアメリカには通常の民族概念を当てはめにくい。
 15世紀に始まる新興民族国家スペインの自民族中心主義は、征服したインディオindio(先住民)社会とその文化に対するスペイン人の優越意識を植民地体制のなかに制度化した。これは、その後のスペイン人と非スペイン人の関係を大きく規定し、ひいては今日のスペイン系ラテンアメリカ諸国の精神風土を方向づけることにもなった。たとえば、スペイン人とインディオとの混血の度合いによるカースト的な身分階層制をはじめ、スペイン系やメスティソmestizo(混血)系の支配する植民地主義体制に対しインディオが各時代に各地で表明した不満にはすべて「反逆(レベリオン)」という全面的否定のレッテルが貼(は)られた。また、インディオ社会の進歩とはスペイン系文化への同化にほかならないと広く考えられてきた。これらは、今日のスペイン系ラテンアメリカ社会を特徴づける権威主義的な精神風土の根源が、15世紀末以後、アメリカ大陸に移植されたスペイン民族中心主義にあったことを示している。
 そのようななかで、インディオは近代国家の一員として、ますます外部社会に関与せざるをえなくなっており、スペイン語を習得し、西欧的生活習慣を身につけ、農業を離れて教師、仲買小売業者、政府機関職員などの職を得、エリート化する者も増えている。国によって事情は異なるが、そのような場合、彼らがアイデンティティの問題を十分に解決しているとはいえない。スペイン民族主義および近代主義が強い文化風土のなかで、自己の民族所属を操作し、国民社会での社会的地位の獲得に努力するインディオの場合もある。
 ブラジル地方征服当時、すでに黄金時代を過ぎていたポルトガルは、アメリカ大陸の植民地経営にスペインほどの民族主義を持ち込まなかった。そのために、ブラジルでは血統や文化的背景による権威主義や階層制度は、スペイン領植民地に比べ弱かったといわれる。
 先住民統合化政策などの実行上、為政者の側が多民族主義を打ち出し、民族所属意識の再編成を図ることもある。また、ラテンアメリカという概念は、アングロ・アメリカという概念との対比において政治的に出現することも多い。実際、ラテンアメリカをてこに共同意識が形成されるのは、本来はアングロ・アメリカとかならずしも一致しないのだが、アメリカ合衆国に対抗し、あるいは先進国一般に対して団結をみせる場合であることが少なくない。
 このような場合に形成される「ラテンアメリカ民族意識」はかなり人工的、二次的、戦略的なものである。文学、芸術などの分野でもラテンアメリカは一様であるかのような錯覚に陥るが、実際には国境の壁は厚い。また、一国内をみても、アルゼンチン文化、メキシコ文化、ブラジル文化などと一括してとらえることはできないほどの多様性を含んでいる。
 そのようなラテンアメリカに暮らす人々にとり、「民族と文化」とは、民族間、文化間の関係として意識化されることが多い。ラテンアメリカの国々では、独立以後、多民族国家を統合するイデオロギーとしての国民文化づくりが唱えられ、その一方でわれわれラテンアメリカ人とはだれなのかという自問も繰り返されてきた。その背景には、諸文化と諸民族が混在するラテンアメリカ人の大多数が、ヨーロッパ人でもインディオでもない新しいアイデンティティの確立を模索しているという状況がある。[落合一泰]
文化
ラテンアメリカを文化的な広がりとしてみた場合、その文化は、地理学的に定義される領域を越え、アメリカ合衆国南西部のテキサス州、ニュー・メキシコ州、アリゾナ州などでも色濃くみられる。また、カリフォルニア州やフロリダ州にもメキシコ系やキューバ系住民が増加している。ニューヨーク市にはプエルト・リコ系住民が多い。アメリカ合衆国では、ヒスパニック系と総称されるこのようなラテンアメリカ系文化とその担い手たちが社会的、文化的に一大勢力に育ちつつある。また、イギリスのロンドンには、主として旧植民地のジャマイカなどからの移民も少なくない。
 イベリア=キリスト教文化という文化的大伝統が存在するラテンアメリカだが、それを基層文化で分類すれば、その構成人間集団は、(1)インディオ、(2)メスティソ、(3)アフロ・アメリカ系、(4)ヨーロッパ系、(5)移民の5集団に大きく分けられる。これらの相違は、渡来した文化の違いのみならず、各地、各時代で受け入れ側のアメリカ大陸の文化社会環境に差があったことも反映している。基層文化を構成する集団の地域的分布や特徴は以下のとおりである。
(1)インディオ メキシコ中部・南部、グアテマラ、エクアドル、ペルー、ボリビアなどのおもに高地に閉鎖的な共同体を形成する農民、およびブラジルとコロンビアのアマゾン川流域、ベネズエラのオリノコ川流域、中央アメリカのカリブ海沿岸部などに居住するインディオ諸集団である。
 ここで明らかにしておくべきことは、インディオという名称は、非インディオが南北アメリカ大陸の全先住民を包括する語として用いる集団名称だが、そうよばれる人々自身には、そのような実体がないという点である。たとえば現代メキシコのインディオ社会では、インディオというスペイン語はだれでも知っているが、このことばは上記の意味では具体的に了解されていない。インディオにとり「われわれ」とは、一般に村単位のメンバー意識である。同じ土着言語を用いても、村々の間には民族集団としての共同意識が存在しないことが多い。
(2)メスティソ 本来メスティソとは、生物学的混血を意味したが、現在では、社会的・文化的混血も含意する。メスティソたちは、今日のラテンアメリカ文化・社会の中核を形成している。
(3)アフロ・アメリカ系 ブラジル北東部、フランス領ギアナ、スリナム、ガイアナ、カリブ海諸国および中央アメリカのカリブ海沿岸部などに居住する。植民地時代にサトウキビ、ワタ、タバコなどのプランテーションに導入されたアフリカ人奴隷の子孫で、アフリカ文化を色濃く保持している。ヨルバ系アフリカ人の渡来したカリブ海地方とバントゥー系アフリカ人が導入されたブラジルでは、文化的な相違が少なくない。
(4)ヨーロッパ系 住民はおもにチリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル南部に居住する。征服直後に入植したスペイン人やポルトガル人と異なり、19世紀にヨーロッパから渡来した移民の子孫が主で、イタリア、スペイン、ドイツ、イギリス、旧ユーゴスラビアの出身者が多く、ユダヤ系も少なくない。ラテンアメリカに同化する一方、出身国単位の組織を維持発展させ、父祖の地への帰属意識を保持している場合もある。ヨーロッパ系住民が社会経済的に上層階級を占める場合が多い。
(5)移民 少数の難民、クェーカー教徒のような宗教団体、労働者として渡来し定着した中国人、農業移民として入植し、現在は各方面で活躍するようになった日本人、商人として活躍するアラブ系移民などで、集団としての民族文化を保持する場合も少なくない。
 以上の5タイプのうち、人口のうえで大多数を占めるメスティソ社会には、思考・行動様式において、西欧文化と土着文化との融合がみられる。たとえば、メスティソ文化の一つの精神的基盤として、フォーク・カトリシズムとよばれる、ローマ・カトリック教に土着的・民俗的要素が融合した宗教原理と行動があげられる。その最大の特徴は、聖人信仰の卓越だが、とくにグアダルーペの聖母に代表されるマリア信仰の卓越は、ヨーロッパ、アメリカ大陸の古い地母神信仰に基づくものと考えられる。[落合一泰]
社会
メスティソ社会では、とくに一対一の人間関係が重視される。制度を介しての間接的関係より、直接的、個人的な人間関係が重視される。これは、ラテンアメリカの人間関係を特徴づける縁故主義の背景をなしている。これはまた、間接民主制への不信の源泉でもあり、ラテンアメリカの政体が一般に不安定にならざるをえない遠因ともなっている。ラテンアメリカには、そのような人間関係を統合する存在として、カリスマ性をもつ独裁者が出現しやすい。
 ラテンアメリカに特徴的な男女関係として、マチスモmachismoとよばれる男性優越主義がしばしば指摘される。雄としての男性の力の誇示と名誉の保持がその中心概念である。これは、スペインの名誉観に起源をもつものと考えられる。女性にとっては純潔の美徳を守ることが最大の名誉であり、一方、男性にとっては、人生において、獲得していく名誉、とくに女性に対する優越が名誉の基盤である。この両性の名誉は根本的に矛盾するものであり、マチスモは、その矛盾の心理的・社会的出現形態だといえる。また、マチスモは、すべてのラテンアメリカ人男性の心理と行動を規制しているというより、彼らの生き方の一つのオプションであるとみなす立場もある。
 ラテンアメリカでは、数のうえでは人口の3分の2を占めるインディオやメスティソの農民が主流だが、白人を中心とした少数の上流階級が都会に存在し、19世紀にスペイン植民地体制から脱却してのちも国内植民地主義体制が維持されている場合が多い。近年は、都市部を中心に中産階級の進出も顕著である。一方、大都市へインディオ、メスティソ農民が大量に流入し、重大な都市問題に発展している。メキシコ市やリマ市などでは、それぞれベシンダーvecindad、バリアーダbarriadaとよばれるスラムの形成がみられる。
 このようなスラム社会では、アメリカの人類学者ルイスO. Lewisが「貧困の文化」とよんだ次のような特徴をもつ文化がみられることが多い。それは、(1)有効な社会参加の不足、(2)拡大家族以上の社会組織の欠如、(3)不安定な幼児期・思春期・青年期、(4)男性による女性の性的支配、(5)男性・父親の責任行動の不足と女性・母親中心主義、(6)兄弟・姉妹間の緊張関係、(7)運命主義などである。[落合一泰]
『田中耕太郎著『ラテン・アメリカ史概説』上下(1949・岩波書店) ▽ラテン・アメリカ協会編『ラテン・アメリカの歴史』(1964・中央公論社) ▽中川文雄他著『ラテンアメリカ現代史 』(1978、84・山川出版社) ▽増田義郎著『世界の歴史7 インディオ文明の興亡』(1977・講談社) ▽加茂雄三著『世界の歴史23 ラテンアメリカの独立』(1978・講談社) ▽国本伊代著『概説ラテンアメリカ史』(1992・新評論) ▽国本伊代・中川文雄編『ラテンアメリカ研究への招待』(1997・新評論)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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