精選版 日本国語大辞典 「天野為之」の意味・読み・例文・類語
あまの‐ためゆき【天野為之】
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経済学者、経済評論家、教育者。万延(まんえん)元年12月27日、唐津(からつ)藩医の長男として江戸に生まれる。1882年(明治15)7月東京大学文学部政治理財科を卒業、ただちに東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)の専任講師となり、1917年(大正6)いわゆる早大騒動で学長、教授を辞任するまで同大学の経営と教育に情熱を注ぎ、高田早苗(さなえ)、坪内逍遙(しょうよう)とともに「早稲田三尊」と称せられた。また早稲田実業学校の創設にも力を尽くし、創立翌年の1902年(明治35)から1938年(昭和13)3月26日に没するまで校長の職にあった。他方、1890年の第1回総選挙に佐賀県から立憲改進党候補として立候補し当選、ただ1期であったが衆議院議員を務め、また東洋経済新報社の創設、経営にも参加(1895~1907)、数多くの評論を発表した。彼の思想は、イギリスの功利主義とくにJ・S・ミルの流れをくむ自由主義であったが、現実的に例外として保護政策をも認めた点は、田口卯吉(うきち)と異なる。1886年3月に刊行された彼の『経済原論』は、日本人によって書かれた最初の読みやすい本格的経済原論として版を多く重ねた。主著にはほかに、経済政策論をまとめた『商政標準』(1886)、評論集『経済策論』(1910)などがある。
[多田 顯]
『浅川栄次郎・西田長寿著『天野為之』(1950・実業之日本社)』▽『堀経夫著『明治経済思想史』(1975・明治文献資料刊行会)』
経済学者,教育者。藩医の長男として江戸唐津藩邸に出生。1882年東大文学部卒業後,立憲改進党に入党,同時に東京専門学校(早稲田大学の前身)講師に就任,高田早苗,坪内雄蔵(逍遥)とならんで早稲田三尊と後世称せられ,また操觚(そうこ)界(ジャーナリズム)にも活躍した。東京専門学校での講義は86年刊行の《経済原論》に結実したが,本書は10年間に21版を重ねるほどの好評を博し,イギリス古典学派経済理論の日本への紹介に貢献したので,福沢諭吉,田口卯吉とともに明治の三大経済学者と称せられている。出生年を1859年(安政6)に訂正して,90年の第1回総選挙に被選挙権を獲得,当選後予算委員として活躍したが,92年第2回立候補の際,暴行を受けたのみならず落選,政界を断念した。97年《東洋経済新報》主幹。99年法学博士。1902年早稲田実業学校校長。04年早大商科科長。15年早大学長に推されたが,在任中いわゆる早稲田騒動の渦中に投ぜられ,17年早大を去ることを余儀なくされ,余生を早稲田実業学校の育成にささげた。
執筆者:小松 芳喬
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