町田忠治(読み)マチダチュウジ

デジタル大辞泉 「町田忠治」の意味・読み・例文・類語

まちだ‐ちゅうじ〔‐チユウヂ〕【町田忠治】

[1863~1946]政治家。秋田の生まれ。「朝野新聞」「郵便報知新聞」記者を経て東洋経済新報社を創立。のち、政界に入り、農相・商工相などを歴任。昭和20年(1945)日本進歩党を結成、総裁となったが、翌年公職追放により引退。

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精選版 日本国語大辞典 「町田忠治」の意味・読み・例文・類語

まちだ‐ちゅうじ【町田忠治】

  1. 政治家。秋田藩出身。若槻・浜口内閣の農相、岡田内閣の大蔵・商工相、小磯内閣国務相。昭和一〇年(一九三五)民政党総裁。第二次大戦後日本進歩党(後の日本民主党)の総裁となる。文久三~昭和二一年(一八六三‐一九四六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「町田忠治」の意味・わかりやすい解説

町田忠治
まちだちゅうじ
(1863―1946)

明治後期から昭和前期の政治家。文久(ぶんきゅう)3年3月30日秋田藩士の家に生まれる。帝国大学法科大学選科卒業。犬養毅(いぬかいつよし)の知遇を得て言論界に投じ、『朝野新聞』『郵便報知新聞』記者を経て、1895年(明治28)東洋経済新報社を創立、社長となったがまもなく辞任。その後、日本銀行副支配役、山口銀行総理事などを経て政界に入り、1912年以来、衆議院議員当選10回。立憲国民党、立憲同志会、憲政会立憲民政党の幹部として活躍。この間、報知新聞社長を務めた。1926年(大正15)第一次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣の農相、ついで浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣、第二次若槻内閣の農相、岡田啓介(けいすけ)内閣の商工相を歴任し、米価調節、蚕糸対策などにあたった。1935年(昭和10)立憲民政党総裁に就任、政党政治家の長老として新体制運動に抵抗したが時流に抗しえず、1940年民政党は解党し大政翼賛会に加わった。1944年小磯国昭(こいそくにあき)内閣に入閣。第二次世界大戦後の1945年(昭和20)日本進歩党総裁となったが、翌1946年公職追放により辞任した。昭和21年11月12日死去。

鳥海 靖]

『松村謙三著『町田忠治翁伝』(1950・町田忠治翁伝記刊行会)』『町田忠治伝記研究会編著『町田忠治』伝記編・史料編(1996・桜田会)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「町田忠治」の意味・わかりやすい解説

町田忠治
まちだちゅうじ

[生]文久3 (1863).3.30. 出羽
[没]1946.11.12. 東京
明治・大正・昭和期の政治家。秋田藩士の子として生まれる。1887年に帝国大学(→東京大学)を卒業。官界に入ったが 1888年新聞界に転じ,『朝野新聞』『郵便報知新聞』を経て,1895年に東洋経済新報社(→東洋経済新報)を創設した。1899年山口銀行総理事となり,関西財界に地盤を築いた。1912年に衆議院議員となり,以来 10回当選。1926年の第1次若槻礼次郎内閣,1929年の浜口雄幸内閣,1931年の第2次若槻内閣で農林大臣を務めた。1934年の岡田啓介内閣では商工大臣,のち大蔵大臣を兼任。1935年立憲民政党総裁となり,1937年近衛文麿内閣参議,1944年小磯国昭内閣の国務大臣を務めた。第2次世界大戦後,日本進歩党を結成し総裁となったが,1946年に公職追放され政界を退いた。

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「町田忠治」の解説

町田 忠治
マチダ チュウジ


肩書
農相,内相,蔵相,衆院議員(民政党),報知新聞社長

別名
号=幾堂

生年月日
文久3年3月30日(1863年)

出身地
秋田県秋田市

学歴
大学予備門(現・東大)選科〔明治20年〕卒

経歴
犬養毅を頼って上京、大学を出て朝野新聞や報知の記者となり、欧米を視察したあと、明治28年に東洋経済新報社を設立、主幹に。30年日本銀行に入り、32年在阪の山口銀行総理事などをして関西財界の有力者となるが、43年辞職。45年政界に入り、以来、秋田県から衆院議員に当選10回。この間、大正9〜13年報知新聞社長。15年第1次若槻内閣、昭和4年浜口内閣、6年第2次若槻内閣の各農相、9年岡田内閣の商工相兼蔵相、19年小磯内閣の国務相を歴任。また10〜15年民政党総裁を務め、戦前の政党人としては恵まれたコースをたどる。戦後は日本進歩党結成の際、総裁に推されたが、公職追放となったため、その地位を幣原喜重郎に譲った。“ノントー”(のんきなとうさん)の愛称で衆望を集める一方、財政通でもあり、「財政学」の著書がある。

没年月日
昭和21年11月12日

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20世紀日本人名事典 「町田忠治」の解説

町田 忠治
マチダ チュウジ

明治〜昭和期の政治家,実業家 農相;内相;蔵相;衆院議員(民政党);報知新聞社長。



生年
文久3年3月30日(1863年)

没年
昭和21(1946)年11月12日

出身地
秋田県秋田市

別名
号=幾堂

学歴〔年〕
大学予備門(現・東大)選科〔明治20年〕卒

経歴
犬養毅を頼って上京、大学を出て朝野新聞や報知の記者となり、欧米を視察したあと、明治28年に東洋経済新報社を設立、主幹に。30年日本銀行に入り、32年在阪の山口銀行総理事などをして関西財界の有力者となるが、43年辞職。45年政界に入り、以来、秋田県から衆院議員に当選10回。この間、大正9〜13年報知新聞社長。15年第1次若槻内閣、昭和4年浜口内閣、6年第2次若槻内閣の各農相、9年岡田内閣の商工相兼蔵相、19年小磯内閣の国務相を歴任。また10〜15年民政党総裁を務め、戦前の政党人としては恵まれたコースをたどる。戦後は日本進歩党結成の際、総裁に推されたが、公職追放となったため、その地位を幣原喜重郎に譲った。“ノントー”(のんきなとうさん)の愛称で衆望を集める一方、財政通でもあり、「財政学」の著書がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「町田忠治」の意味・わかりやすい解説

町田忠治 (まちだちゅうじ)
生没年:1863-1946(文久3-昭和21)

政治家。秋田に生まれる。1887年東京帝国大学法科選科を卒業し,法制局に入るが1年で退官,《朝野新聞》に入り,犬養毅,尾崎行雄,大隈重信らに知られる。同新聞廃刊で91年《郵便報知新聞》に移り,93-94年外遊,95年東洋経済新報社を創立したが翌年には天野為之に譲り,日本銀行に入り,さらに99年山口銀行に招かれて経営にあたる。1912年秋田より衆議院議員に当選,以後当選10回。立憲国民党,立憲同志会,憲政会,立憲民政党に所属,第1次若槻礼次郎,浜口雄幸,第2次若槻各内閣の農林大臣,岡田啓介内閣の商工大臣,第1次近衛文麿,平沼騏一郎,第2次近衛各内閣の内閣参議,小磯国昭内閣の国務大臣を歴任。この間,1935年1月民政党総裁に就任したが,40年8月新体制運動により解党を余儀なくされた。第2次大戦後,45年11月の日本進歩党結党に参加,12月総裁に推されたが46年1月公職追放され,11月には病のため死亡した。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「町田忠治」の意味・わかりやすい解説

町田忠治【まちだちゅうじ】

政治家。出羽(でわ)秋田藩士の子。東大卒。法制局,朝野新聞郵便報知新聞を経て1895年東洋経済新報社を創立。翌年同社を天野為之に譲り,日本銀行に入り,のち大阪の山口銀行(のち統合して三和銀行)の総理事。1912年衆議院に当選。農相・商工相・蔵相等を歴任。1935年立憲民政党総裁となる。1945年,第2次大戦後に日本進歩党を結成して総裁。1946年公職追放。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「町田忠治」の解説

町田忠治 まちだ-ちゅうじ

1863-1946 明治-昭和時代の政治家。
文久3年3月30日生まれ。明治28年東洋経済新報社を創立。翌年日本銀行にはいり,のち山口銀行総理事,報知新聞社長となる。45年衆議院議員(当選10回)。農相,商工相,蔵相,国務相などを歴任。戦後日本進歩党を結成,総裁となった。昭和21年11月12日死去。84歳。出羽(でわ)秋田出身。帝国大学卒。

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367日誕生日大事典 「町田忠治」の解説

町田 忠治 (まちだ ちゅうじ)

生年月日:1863年3月30日
明治時代-昭和時代の政治家。山口銀行総理事;報知新聞社長
1946年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の町田忠治の言及

【進歩党】より

…公職追放で議員の95%弱である260名を失い,46年4月の総選挙では当選94名で社会党とほぼ同数であり第二党の地位しか得られず,保守主流の役を自由党に譲る結果となった。党首には初め宇垣一成を擁立する動きがあったが,45年12月18日町田忠治を総裁に決定,町田が追放されて以降は斎藤,犬養健らで運営,46年4月に入ってようやく首相を辞任した幣原喜重郎を総裁として迎え入れた。幣原内閣の与党であった進歩党は国民の批判を浴びて苦境に立っていたが,第1次吉田茂内閣の成立で救われ,再び与党として閣僚を送った。…

【東洋経済新報】より

…1895年11月15日,町田忠治設立の東洋経済新報社(同日設立)から旬刊誌として創刊された,政治,経済を中心とした論説誌。1919年10月4日号から週刊となる。…

※「町田忠治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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