明治後期から昭和前期の政治家。文久(ぶんきゅう)3年3月30日秋田藩士の家に生まれる。帝国大学法科大学選科卒業。犬養毅(いぬかいつよし)の知遇を得て言論界に投じ、『朝野新聞』『郵便報知新聞』記者を経て、1895年(明治28)東洋経済新報社を創立、社長となったがまもなく辞任。その後、日本銀行副支配役、山口銀行総理事などを経て政界に入り、1912年以来、衆議院議員当選10回。立憲国民党、立憲同志会、憲政会、立憲民政党の幹部として活躍。この間、報知新聞社長を務めた。1926年(大正15)第一次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣の農相、ついで浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣、第二次若槻内閣の農相、岡田啓介(けいすけ)内閣の商工相を歴任し、米価調節、蚕糸対策などにあたった。1935年(昭和10)立憲民政党総裁に就任、政党政治家の長老として新体制運動に抵抗したが時流に抗しえず、1940年民政党は解党し大政翼賛会に加わった。1944年小磯国昭(こいそくにあき)内閣に入閣。第二次世界大戦後の1945年(昭和20)日本進歩党総裁となったが、翌1946年公職追放により辞任した。昭和21年11月12日死去。
[鳥海 靖]
『松村謙三著『町田忠治翁伝』(1950・町田忠治翁伝記刊行会)』▽『町田忠治伝記研究会編著『町田忠治』伝記編・史料編(1996・桜田会)』
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明治〜昭和期の政治家,実業家 農相;内相;蔵相;衆院議員(民政党);報知新聞社長。
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政治家。秋田に生まれる。1887年東京帝国大学法科選科を卒業し,法制局に入るが1年で退官,《朝野新聞》に入り,犬養毅,尾崎行雄,大隈重信らに知られる。同新聞廃刊で91年《郵便報知新聞》に移り,93-94年外遊,95年東洋経済新報社を創立したが翌年には天野為之に譲り,日本銀行に入り,さらに99年山口銀行に招かれて経営にあたる。1912年秋田より衆議院議員に当選,以後当選10回。立憲国民党,立憲同志会,憲政会,立憲民政党に所属,第1次若槻礼次郎,浜口雄幸,第2次若槻各内閣の農林大臣,岡田啓介内閣の商工大臣,第1次近衛文麿,平沼騏一郎,第2次近衛各内閣の内閣参議,小磯国昭内閣の国務大臣を歴任。この間,1935年1月民政党総裁に就任したが,40年8月新体制運動により解党を余儀なくされた。第2次大戦後,45年11月の日本進歩党結党に参加,12月総裁に推されたが46年1月公職追放され,11月には病のため死亡した。
執筆者:古屋 哲夫
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…公職追放で議員の95%弱である260名を失い,46年4月の総選挙では当選94名で社会党とほぼ同数であり第二党の地位しか得られず,保守主流の役を自由党に譲る結果となった。党首には初め宇垣一成を擁立する動きがあったが,45年12月18日町田忠治を総裁に決定,町田が追放されて以降は斎藤,犬養健らで運営,46年4月に入ってようやく首相を辞任した幣原喜重郎を総裁として迎え入れた。幣原内閣の与党であった進歩党は国民の批判を浴びて苦境に立っていたが,第1次吉田茂内閣の成立で救われ,再び与党として閣僚を送った。…
…1895年11月15日,町田忠治設立の東洋経済新報社(同日設立)から旬刊誌として創刊された,政治,経済を中心とした論説誌。1919年10月4日号から週刊となる。…
※「町田忠治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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