宝荘厳院(読み)ほうしようごんいん

日本歴史地名大系 「宝荘厳院」の解説

宝荘厳院
ほうしようごんいん

京都市左京区聖護院山王しようごいんさんのう町辺りにあった寺。「今鏡」(鳥羽の御賀の巻)に「白河大炊の御門の向ひに御堂を造らせ給ひて供養させ給ふに」とあり、これにより跡地が推定されている(坊目誌)

長承元年(一一三二)鳥羽上皇の御願寺として創建され、一〇月七日の落慶供養には「太上皇御願、宝荘厳院供養、有御幸」と上皇も臨席している(帝王編年記)。また当院の創建については「百錬抄」「中右記」の同日条にもみえ、造営を「播磨守家成」が担当し、「白河新阿弥陀堂」ともよばれている(中右記)。また「誠以過差也、金銀之餝赫奕照耀勝諸御堂也」と(同書)、境内には金銀に彩られた堂宇が立並んでいた。本堂の阿弥陀堂は正面三間、奥行四間で、前庭の池には中島が築かれ舟が浮び、西には大門、東・北に中門を構え、回廊がそれを結んでめぐらされていたという。

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改訂新版 世界大百科事典 「宝荘厳院」の意味・わかりやすい解説

宝荘厳院 (ほうしょうごんいん)

鳥羽上皇の御願寺。1132年(長承1)京都白河の地に九体丈六新阿弥陀堂を中心として建立された。59年(平治1)段階で近江国三村荘など12の荘園がその所領として確認できる。その後の当院の模様はあまりつまびらかではなく,85年(文治1)に地震の被害を受け,1221年(承久3)には堂舎の一部が焼失したことを知る程度である。皇室の御願寺として壮麗をきわめた当院も,鎌倉時代を通じて衰退の道をたどったものと思われる。1330年(元徳2)には後醍醐天皇が当院を東寺に寄進,その支配下の所領はすべて東寺領となるが,そのころ堂舎はほとんど朽ちはて敷地だけであったらしい。45年(興国6・貞和1)東寺の供僧学衆は合同して評議を行い,この宝荘厳院執務職得分を勧学会料にあてることにした。そして宝荘厳院とその所領を支配し,勧学会衆を扶助するために宝荘厳院方という寺僧組織が作られ,以後東寺の寺内で重要な役割をはたすこととなる。
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世界大百科事典(旧版)内の宝荘厳院の言及

【白河殿】より

…56年(保元1)7月,鳥羽法皇の没直後に起きた保元の乱において,崇徳上皇の御所であった白河北殿は戦場となり火をかけられて焼失した。なお,1132年(長承1)に九体阿弥陀堂が新造供養され,宝荘厳院と命名された。この御堂は北殿の南に所在したらしいが,泉殿との関係位置を知る資料を欠いている。…

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