種田政明(読み)たねだ・まさあき

朝日日本歴史人物事典 「種田政明」の解説

種田政明

没年:明治9.10.24(1876)
生年:天保8.8(1837)
幕末維新期の薩摩藩士,軍人。文久2(1862)年藩命により上洛,朝彦親王護衛に当たる。豪放で花の左門(当時の通称)とよばれたという。戊辰戦争従軍。明治4(1871)年7月兵部省出仕,陸軍少丞を経て同6年陸軍少将,東京鎮台司令長官。天長節天覧の諸兵隊分列式総指揮,野営演習諸兵総指揮などに当たる。同8年12月江華島事件談判のため朝鮮に渡った黒田清隆井上馨の正副使節に随行。翌9年1月熊本鎮台司令長官,同年10月居宅を敬神党に襲われ殺害された。折から同居中の愛妾勝子が事件を知らせた電報の文句は潤色されて流行した。「旦那はいけないわたしは手傷,かわりたえぞえ国のため」。

(井上勲)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「種田政明」の解説

種田政明 たねだ-まさあき

1837-1876 幕末-明治時代の武士,軍人。
天保(てんぽう)8年8月生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。維新後,兵部省にはいり明治6年陸軍少将,東京鎮台司令長官。9年熊本鎮台司令長官となるが,10月24日太田黒伴雄ら熊本県の不平士族による神風連の乱の際,居宅で就寝中におそわれて死去。40歳。通称は清八郎,健一郎,左門。姓は種子田ともかく。

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