翻訳|soccer
足や頭などを使ってボールをあつかい、点を取る
更新日:
出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報
( 1 )イングランドでそれまでさまざまな形で行なわれていたフットボールに、一八六三年、フットボール協会(The Football Association)が初めて統一ルールを制定したのが「アソシエーション‐フットボール」である。「サッカー」はその学生俗語。
( 2 )日本でこの競技が紹介されたのは明治六年(一八七三)とされる。初め「蹴鞠(けまり)」「フットボール」「アッソシエーション、フットボール」などといわれたが、「蹴球」の訳語ができ定着した。また、「ア式蹴球」といって、「ラ式蹴球」(ラグビー)と区別することもあった。
( 3 )日本で「サッカー」が初めて使われたのは大正七年(一九一八)といわれるが、広まったのは第二次世界大戦後。
11人ずつの2チームに分かれ、手を用いずにボールを相手のゴールに入れて得点を競い合う球技。アソシエーション・フットボールassociation footballの別名。associationの短縮型socにcerをつけてできたことばとされる。日本ではフットボール、ア式蹴球(しゅうきゅう)、蹴球などの名でよばれてきたが、1960年(昭和35)ごろからラグビーフットボール、アメリカンフットボールと区別し、呼称をはっきりさせるためにサッカーとよぶようになった。これに倣って、従来の日本蹴球協会も1974年に財団法人格を取得する際に日本サッカー協会と改称した。しかし、アメリカやアイルランドなど一部の国を除く世界中の国ではフットボールといえば、アソシエーション・フットボールを意味する。
世界でもっとも盛んなスポーツで、2019年時点で、国際サッカー連盟(FIFA(フィファ))に加盟している国と地域は211に達し、ファンの数は35億人以上といわれている。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
丸いものを足でけることは人間の本能ともいえ、サッカーに似た遊びは紀元前のギリシアやローマ時代の壁画にみることができる。アジアにおいても中国の伝説上の帝王である黄帝の時代に同じような遊びをしたという記録がある。
中世、近世では、北ヨーロッパのバイキングが戦った相手の首領の首をけりあったり、球形のものをつくり、村対村でけりあう原始的なフットボールが行われたが、あまりに乱暴なためしばしば禁止令が出されている。たとえばイギリスでは、1314年にエドワード2世が、1401年にヘンリー4世が都市におけるフットボールの禁止令を出している。
スポーツとしての型が整ってきたのは1800年代である。イングランドのエリートの若者の学校であるパブリック・スクールで行われていたフットボールは、学校ごとに独自のルールで行われていた。1848年ケンブリッジ大学フットボール・クラブが共通ルールを提唱し、1863年ロンドン市内と近郊の11クラブが集まり、世界最初のサッカー協会であるイングランド・サッカー協会The Football Association(The FA)が設立された。なお、パブリック・スクールの一つであるラグビー校でフットボールの試合中に少年エリスWilliam Webb Ellis(1806―1872)がボールを手で持って走り出した(1823)ことから生まれたラグビーフットボールが協会を設立したのは1871年である。イングランド・サッカー協会の設立に刺激され、1873年にスコットランド、1876年にはウェールズ、1880年にはアイルランドにサッカー協会が設立された(アイルランドに設立されたのは、現在の北アイルランドサッカー協会)。イギリスに生まれたサッカーは以来ヨーロッパ各国に普及しただけでなく、各国が植民地政策の手段として利用し、ルールが簡単であり、ボール1個で大勢が楽しめることから、世界中に急速に普及した。
1904年にはFIFAがフランス人のロベール・ゲランRobert Guérin(1876―1952)の提唱で創設され、最初はこの世界組織に反発していたイギリスの4協会も1905年にイングランド、1910年にスコットランドとウェールズ、1911年にはアイルランドが加盟。名実ともにプロ、アマチュアを含めて世界のサッカーを統轄する組織になった。1930年7月には、フランス人のFIFA第3代会長ジュール・リメJules Rimet(1873―1956)の提唱により、FIFAが主催するサッカーの世界選手権であるFIFAワールドカップの第1回大会がウルグアイで13チームが参加して開催された。なお、オリンピックでサッカーが公式競技となったのは1908年の第4回ロンドン大会からである。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
日本にサッカーが紹介されたのは、イングランド・サッカー協会が設立されてわずか10年後の1873年(明治6)、イギリスのアーチボルド・ルシアス・ダグラスArchibald Lucius Douglas(1842―1913)海軍少佐が東京築地(つきじ)の海軍兵学寮の教師として生徒に教えたのが始まりであるとされている。その1年後には、工学寮教師のイギリス人ライメル・ジョーンズRichard Oliver Rymer-Jones(1849―?)が学生に教えた。1903年(明治36)日本初のサッカー技術指導書『フートボール』が東京高等師範学校蹴球部から出版された。1917年(大正6)第3回極東選手権競技大会が東京の芝浦(しばうら)で開催され、日本は初めて蹴球に参加、これが最初の国際試合である。1919年にイングランド・サッカー協会からカップが贈呈されたのを機に、1921年9月10日に大日本蹴球協会が創立、1929年(昭和4)にFIFAに加盟した。1936年の第11回オリンピック・ベルリン大会に初出場し優勝候補のスウェーデンを3対2で破った。
第二次世界大戦の戦時体制下の1942年、大日本蹴球協会は大日本体育会(現、日本スポーツ協会)内の一部会(蹴球部会)となったが、大戦後の1947年(昭和22)に日本蹴球協会に改称し再発足。敗戦国の日本はFIFAから除名されていたが、1950年に復帰し、1951年インドのニュー・デリーで開催された第1回アジア競技大会に代表チームを派遣、銅メダルを獲得した。1954年アジアサッカー連盟(AFC)に加盟。1956年第16回オリンピック・メルボルン大会では1回戦で地元オーストラリアに0対2で敗退した。1960年第17回ローマ大会に予選で敗れたことにより、4年後の1964年第18回東京大会を控え日本蹴球協会は西ドイツからプロ・コーチのデットマール・クラマーを招き強化を図った。その結果、東京大会では日本は強豪アルゼンチンを3対2で破りベスト8に進出。クラマーのアドバイスに従い1965年に日本アマチュア・スポーツ界初の全国リーグ、日本サッカーリーグJapan Soccer League(JSL)が創設され、同年6月にはスコットランドのプロサッカークラブ、スターリング・アルビオンFCが来日し、初のプロ・チームとの対戦が実現した。1968年第19回オリンピック・メキシコ大会ではグループリーグを無敗で勝ち抜き、準決勝は優勝したハンガリーに0対5で敗れたが、3位決定戦で地元メキシコを2対0で破り銅メダルを獲得した。これはサッカーの世界大会におけるアジア初のメダルである。なお、日本蹴球協会は1974年に財団法人化され、日本サッカー協会Japan Football Association(JFA)に名称変更した(2012年公益財団法人に移行)。
しかし、毎年1月に東京の国立競技場で行われる全国高等学校サッカー選手権大会の決勝戦には満員の観客を集めるものの、日本代表チームは他のアジア諸国もレベルアップするにしたがいオリンピック予選の突破は困難となり、JSLの観客も減少し、低迷期が続いた。この状態を脱するためにはプロフェッショナリズムの導入が不可欠と判断したJSLは1988年に活性化委員会を設立、それを受けて1989年(平成1)JFAもプロリーグ検討委員会を設置。1991年、日本のサッカーを劇的に変えた社団法人日本プロサッカーリーグJapan Professional Football League(通称、Jリーグ。2012年公益社団法人に移行)が設立され、1993年5月15日に国立競技場に6万人近くの観衆を集めて最初の試合が行われた(JSLは1992年に廃止)。
Jリーグは、地域住民、地方自治体、周辺の複数の企業の協力という三位一体(さんみいったい)方式で地域に根ざしたクラブチームづくりを目ざした。発足当時はヨーロッパや南米からトップクラスの選手の参加もあり、競技場に多数の観客が殺到し選手のレベルも急速にあがったのみならず、各クラブチームにサポーター(支援者)が現れ、日本代表チームのサポーター誕生につながった。
オランダ人のハンス・オフトHans Ooft(1947― )を監督とした日本代表チームは、プロリーグの誕生により急激にレベルアップし1992年のAFCアジアカップで優勝。1994年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会の予選最終戦では、ロスタイム(アディショナルタイム)の失点により本大会の出場権を逃し、これが「ドーハの悲劇」と語られたが、この試合のテレビ中継は48.1%の高視聴率を記録し、日本国民のサッカーへの関心の高さを示した。
一方、オリンピック・サッカーでは1996年第26回アトランタ大会で28年ぶりに出場した日本チームは優勝候補のブラジルに1対0で勝利したが、ベスト8進出はならなかった。これ以降、オリンピックには2020年第32回東京大会まで連続7回出場を記録する。
日本の実力がアジアのトップレベルに達したことにより、サポーターをはじめ多くのファンの目はワールドカップに向かった。1998年フランス大会に初出場を果たした日本は岡田武史(おかだたけし)監督のもと善戦したが3連敗でグループリーグで敗退。2002年(平成14)のワールドカップ史上初の共同開催となった日本・韓国大会はフランス人のフィリップ・トルシエPhilippe Troussier(1955― )が監督を務めた。トルシエは1999年のFIFAワールドユース選手権(現、FIFA U-20ワールドカップ)では日本チームを準優勝、そして2000年のAFCアジアカップでは優勝に導いたが、ワールドカップ本大会では決勝トーナメント1回戦でトルコに0対1で敗れベスト16で終わった。しかし、日韓共催ワールドカップの国民の関心は高く、日本の試合のテレビ視聴率は60%を超え、さらに心配された大会の収支も70億円もの収益を上げた。
2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会はブラジル人のジーコを監督として戦ったが、1分け2敗でグループリーグで敗退。2010年の南アフリカ大会は病気で倒れたイビチャ・オシムの後を受けて再度監督に就いた岡田武史のもと、決勝トーナメントに進んだが、パラグアイにペナルティー・キック(PK)戦で敗れ、ベスト8進出はできなかった。2014年のブラジル大会はイタリア人のアルベルト・ザッケローニAlberto Zaccheroni(1953― )が指揮をとったが1分け2敗でグループリーグを突破できなかった。しかし2018年のロシア大会では、大会の3か月前にフランス人のバイッド・ハリルホジッチVahid Halilhodžić(1952― )が解任され、準備期間がほとんどなかったにもかかわらず、西野朗(にしのあきら)(1955― )監督のもとでチームが一つにまとまり、2大会ぶりにベスト16進出を果たした。決勝トーナメントでは優勝候補のベルギーを相手に一時2点をリードする奮闘をみせ世界を驚かせたが、惜しくも2対3で逆転負けを喫した。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
日本で女子サッカーが正式に認められたのは1979年(昭和54)、日本女子サッカー連盟が承認され、この年度の末の1980年3月に初の日本選手権である全日本女子サッカー選手権大会が開かれてからである。第1回大会は、関東代表FCジンナンと関西代表高槻(たかつき)女子フットボールクラブで決勝戦が行われ、2対1でFCジンナンが初代チャンピオンになった。当時は選手数が少なかったため8人制の試合であった。
1989年に日本の経済の好況に支えられ、全国リーグの日本女子サッカーリーグ(1994年から愛称に「L・リーグ」を使用)が発足。海外の優秀選手の参加により日本のレベルは向上し、日本女子代表チームはアジア競技大会では1990年の北京(ペキン)大会、1994年の広島大会で連続銀メダルを獲得した。また、1991年FIFA初の女子ワールドカップ(FIFA女子世界選手権)の出場権を獲得、1995年の第2回スウェーデン大会ではブラジルを破って初勝利を収めた。しかし、1996年のアトランタ大会からオリンピックの正式競技となった女子サッカーに出場したが全敗で終わり、また、1999年には経済不況によりスポンサーが撤退したためL・リーグは中止され、東西2リーグに再編された。
2004年日本女子代表チームは「なでしこジャパン」の愛称で第28回オリンピック・アテネ大会に出場、ベスト8に進出しフェアプレー賞を受賞したことから、女子サッカーは活気を取り戻した。また、女子リーグの愛称も「なでしこリーグ」となった。2008年2月、佐々木則夫(のりお)(1958― )監督に率いられたチームは、中国・重慶(じゅうけい/チョンチン)での東アジア女子サッカー選手権で強豪北朝鮮、中国、韓国を破り初優勝。同年8月のオリンピック・北京大会では準々決勝で中国を2対0で破り、準決勝に進んだが、アメリカに2対4で敗れ、3位決定戦でもドイツに0対2で敗れメダルを逃した。
2010年なでしこリーグを再編し、10チームによる「プレナスなでしこリーグ」が誕生した。2011年FIFA女子ワールドカップ・ドイツ大会で日本女子代表チームは主将の澤穂希(さわほまれ)を中心に強豪を相手に健闘、決勝でランキング1位のアメリカを延長戦のすえPK戦で破り優勝し、国民栄誉賞を受賞した。さらに同年9月オリンピック・ロンドン大会のアジア予選を勝ち抜き、11月には紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章。2012年のオリンピック本大会では準優勝を果たした。ワールドカップ、オリンピック予選・本大会のテレビ中継はいずれも高視聴率を示し、「なでしこジャパン」のメディアの露出度は急激に高くなり、女子サッカーの認知度を飛躍的に高めた。その後、日本女子代表チームは、ワールドカップの2015年カナダ大会では準優勝、2019年フランス大会ではベスト16の成績をあげている。後を継ぐべき若手もU-17(17歳以下)日本代表は2014年FIFA U-17女子ワールドカップで優勝、U-20(20歳以下)日本代表も2018年のFIFA U-20女子ワールドカップで優勝し、世界で初めて三つの年代のFIFA女子ワールドカップを制覇する国となった。こうしたなか、次々と優秀な選手は出ているが、競技人口の拡大という最大の課題はまだ解決していない。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
2002年5月31日~6月30日に日本・韓国の各10都市で開催されたアジア初のFIFAワールドカップは、開催までには多くの困難があった。とくに、開催国決定時にFIFA会長と副会長が日本支持と韓国支持に分かれたことで、両国のサッカー協会も激しい招致合戦を繰り広げた。最終的には国際オリンピック委員会(IOC)の会長が2か国共催の妥協案を出してFIFA会長を説得し、ワールドカップ史上初の2か国開催が実現したのであるが、この事実はほとんど知られていない。日本政府も日韓関係を考慮し、暗黙裏に2か国共催を支持したため大会はスムーズに行われ、成功を収めた。
日本代表チームはグループリーグを2勝1分けの1位で通過、決勝トーナメントではトルコに0対1で敗れた。一方の韓国は3位決定に進出したが惜しくもトルコに敗れた。両国国民とサポーターの熱狂はすさまじく、日本におけるサッカーに対する国民的関心を大いに高めた。
とくに日本のサポーターは、自国が敗れた後も勝ち残った韓国代表の応援に回るなど、日韓両国が「一つの船に乗り、同じ目的地に向かう」という、きわめて友好的な関係をつくり出した。開催当時のFIFA会長は「ほほえみの大会」World Cup of smilesと大会全般を高く評価した。この背景には、参加チームすべてに公平な拍手を送る日本の観客、海外からの観戦者たちに対するボランティアの温かい対応があった。
大会前、心配された大会の収支は関係政府機関・開催自治体・民間企業の協力と為替(かわせ)差益の好転により大幅な黒字をもたらし、結果としてJFAは自前のビル(JFAハウス)をはじめ、トレーニングセンターなどの施設をもつことができ、その後の日本サッカーの発展に大きく寄与した。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
FIFAの加盟国・地域は211(2019)で、各種スポーツのなかで世界最大規模の連盟の一つである。この組織の特徴はプロとアマチュアを包含するサッカーに関する唯一の組織であることで、世界各国も同様に1国1協会しか存在を認めず、プロ選手がいる国では、プロ、アマチュア両方を統轄することが義務づけられている。したがって、プロ、アマチュアの交流は当然のこととされており、多くのサッカー・クラブはプロを頂点とし、その下にアマチュアから子供までがいっしょに所属している。
FIFAの規約では、選手は、(1)アマチュア、(2)プロの二つの資格に分かれている。プロ選手が生まれたのはイギリスであるが、今日ではヨーロッパ、南北アメリカのみならず、アジア、アフリカにもプロ選手がいる。かつて東欧諸国にはプロは存在しない建前であったが、実際にはプロ同様であったことから、第二次世界大戦後の最初の1948年オリンピック・ロンドン大会でのスウェーデンの優勝を最後に、1980年のモスクワ大会まで優勝はすべて東欧の国によって占められるに至った。そのため1982年FIFAは新たに「オリンピック選手」という資格を設定したが、その内容がIOCの考え方と一致せず、協議の結果、1992年のバルセロナ大会では23歳以下のみに参加資格が与えられ、1996年のアトランタ大会から予選を勝ち抜き本大会に出場するチームは24歳以上の選手を3人に限り補充できることに決まった。
サッカーの世界一を決めるワールドカップは4年に一度、オリンピックの中間年に行われている。この大会はプロもアマチュアも参加できる大会で、その熱狂ぶりはオリンピックを上回るものがあり、世界最大のスポーツの祭典といわれている。FIFAの会長であったジュール・リメの提案により1930年に第1回ジュール・リメ・カップ争奪世界選手権(ワールドカップ)がウルグアイで開催されたが、1958年、1962年、1970年とブラジルが3回優勝し、規定により黄金のジュール・リメ・カップを永久保持することになったため、1974年の西ドイツ大会から新たに製作されたカップの名称もFIFAワールドカップになった。1964年イングランド大会での北朝鮮のベスト8進出という快挙を除き、1978年アルゼンチン大会まではつねにヨーロッパ対南アメリカの戦いであったが、1982年スペイン大会以降アフリカ、アジア勢の活躍が話題になり、その進歩が注目されている。
イギリス系の激しさ、ヨーロッパの合理性、ラテンの個人技という民族性のサッカーから、それらを総合した理想のサッカーに向かって世界中の国が努力しており、この意味では日本も日本のサッカーを1日も早く確立することがたいせつである。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
競技場の大きさは許容範囲があり、この範囲内なら公式試合を行うことができる。ただし、ワールドカップ、オリンピックおよび公式国際試合の場合には、幅68メートル、長さ105メートルの競技場で行うことが決められている。四つのコーナーに、上部にコーナー・フラッグをつけたポール(高さ1.5メートル以上)を立てる。ゴール・ポスト、クロス・バーの材質は木材でも金属でもよい。フィールドは本来は芝生または人工芝であるが、土でもよい。
歴史上、世界でもっとも大きいサッカー場はブラジルのリオ・デ・ジャネイロにあるマラカナン・スタジアムである。以前は収容能力は20万人とされ、1950年のワールドカップの決勝決定戦、ウルグアイ対ブラジル戦では、公式には17万3850人となっているものの、実際には20万を超える人が立錐(りっすい)の余地もなく入ったといわれている。しかし現在では「立ち見席」がなくなり「全席個席」となったため、2014年のワールドカップ時には「定員7万4738人」とされた。このほかにも、スコットランドのグラスゴーにあるパンプデン・パーク・スタジアム、イングランドのロンドン近郊のエンパイヤー・スタジアム・ウェンブリー、スペインのマドリードにあるサンチアゴベルナベウ・スタジアム、メキシコのアステカ・スタジアムなど、10万人以上を収容するサッカー場が各国にあったが、観客の事故を防止する考えから、従来の立ち見席を椅子(いす)席にしたサッカー場が多く、したがって収容能力は以前より15%前後減少している。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
1チームは11人で構成され、そのうちゴールキーパー(GK)だけは他の10人と異なった色のユニホームを着用し、ペナルティー・エリア内にあるボールを手で扱うことが許されている。GKはゴールを守り、他の10人はフィールド上の必要な地域にポジションをとる。この10人の配置法をシステムとよぶ。歴史的にみると、もっとも基本的なシステムは、2フルバック(FB)システム、3FBシステム、4FBシステムで、おのおの2―3―5、3―2―5、4―2―4など、守備ラインから各ラインを構成する選手の数を書いてシステムを表す。
2FBシステム→3FBシステム→4FBシステムというシステムの変遷は、サッカー選手の技術と体力の進歩に伴う戦術の変化をそのまま示している。技術水準の低い時代はパスの正確度も低く、したがって攻撃自体のスピードも低かったが、技術の向上により攻撃はスピードが速くなり、かつ変化の多いものになり、それに対応するために守備に配置される選手の数が多くなったわけである。1970年代になると4―4―2または4―3―3が主流となり、トップに配置されるフォワードの数が少なくなった反面、守備の選手がフォワードの前にまで出て攻撃に参加するオーバーラップが多用されるようになった。このような運動量の多い体力を必要とする意外性のある攻撃に効率的に対応するために、守備は、相手の選手の担当を決めてマークするマン・ツー・マン(対人守備)方式と、自分の担当する地域に入ってきた相手をマークするゾーン(地域守備)方式が併用されるようになった。守備を主としたスウィーパーも機をみて攻撃に参加することが多くなり、リベロとよばれるようになった。今日では中盤の構成を重視し、3―5―2、4―5―1、3―3―2―2等、多彩なシステムが用いられている。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
前半45分、ハーフ・タイム15分以内(大会ごとに決める)、後半45分、計90分という試合時間に相手のゴールにより多くボールを入れた(得点した)ほうが勝者となる。得点は、ボールが完全に相手ゴールのゴール・ライン上の空間を通過したときに1点が与えられる。誤って自分たちのゴールにボールを入れた場合(オウンゴール)でも相手側に1点が与えられる。
リーグ戦形式の場合は延長戦は行わず引き分けとするのが普通であるが、ノックアウト式トーナメントの場合は延長戦を行うこともあり、延長戦でも勝敗が決まらないときにはペナルティー・キック(PK)方式により勝者を決めるのが通常である。また、延長戦の場合、得点があった瞬間で勝敗を決めるVゴール方式(FIFAではゴールデン・ゴール)は、Jリーグでは1992年~2002年まで、FIFAでは1993年~2003年まで採用されたが、現在はルール上認められていない。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
かつては選手交替はいっさい認められなかったが、今日では3~7人、試合中いつでも認められるようになった。人数はそれぞれの大会ごとに規定されるのが普通である。なお、ワールドカップ、オリンピック、AFCチャンピオンズ・リーグ、Jリーグなどでは3人(延長戦になった場合は4人)とされている。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
主審(レフェリー)1人、副審(アシスタント・レフェリー)2人によって判定が行われる。審判員は対戦する2チームとはっきり区別できる色のユニホームを着用する。判定はすべて主審によって行われ、だれもそれに対し抗議することを許されない、絶対的かつ最終的なものである。主審は判定を下すだけでなく、試合をスムーズに進める責任をもっている。副審は主審の判定を助ける。また、競技会の規定によって第4の審判員を任命することができる。今日では、両ゴール裏に位置する追加副審(アディショナル・アシスタント・レフェリーadditional assistant referee)、さらに、ピッチ外に位置し、試合映像をチェックしてピッチ上の審判員を助けるVAR(ビデオ・アシスタント・レフェリーvideo assistant referee)もルールで認められている。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
両チームの主将がトスにより、前半に攻めるゴールか、キック・オフ(プレー開始)を行うかを決める。トスは硬貨を投げ上げ、その表裏によって決める。得点があった場合は、得点されたチームがキック・オフすることによって試合が再開される。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
ボールがタッチ・ラインから出た場合、ボールに最後に触れた選手の反対チームの選手が、ボールが出た地点から両手で頭の後方から頭上を通してボールを投入することにより試合が再開される。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
ボールがゴール・ラインから出た場合、最後に触れたのが攻撃側の選手であればゴール・キックとなり、ゴール・エリアの中にボールを置き、これをキックすることにより試合が再開される。ボールがキックされて明らかに動いたときにイン・プレーとなる。最後にボールに触れた選手が守備側の場合には攻撃側にコーナー・キックが与えられる。コーナー・キックは、ボールが出たサイドのコーナー・エリア内に置いたボールを攻撃側の選手がキックすることにより試合が再開される。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
次の12の反則をすると、反則された側のチームに与えられ、キックされたボールが直接ゴールに入れば得点となる。(1)チャージ(体当たり)する、(2)飛びかかる、(3)ける、またはけろうとする、(4)押す、(5)打つ、または、打とうとする(頭突きを含む)、(6)タックルする、または、挑む、(7)つまずかせる、または、つまずかせようとする、(8)ハンドの反則(ゴールキーパーが自分のペナルティー・エリア内にあるボールを扱う場合を除く)、(9)相手競技者を押さえる、(10)身体的接触によって相手競技者を妨げる、(11)人をかむ、または人につばを吐く、(12)ボール、相手競技者または審判員に対して物を投げる、あるいは、持った物をボールに当てる。
選手を悪質な反則によるけがから保護するために、とくに背後からの激しいタックルは厳しく判定され、場合によっては即退場となる。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
次の八つの反則をした場合に相手側のチームに与えられ、キックされたボールが一度他の選手に触れたあとでないと、ゴールに入ってもゴール・インにはならない。このFKのとき主審は、キックされたボールが別の競技者によって触れられるまで片手を上に伸ばし間接FKであることを示す。(1)危険な方法でプレーする、(2)身体的接触を伴わずに、相手競技者の進行を妨げる、(3)攻撃的な、侮辱的な、または、下品な発言や身ぶり、あるいは、その他のことばによる反則で異議を示した場合、(4)ゴールキーパーがボールを放そうとしているときに、ゴールキーパーがボールを手から放す、キックする、または、キックしようと試みるのを妨げる、(5)ルールに規定されていない反則で競技者を警告する、または、退場させるためにプレーを停止させたとき、(6)ゴールキーパーが自分のペナルティー・エリア内で、ボールを放すまで、6秒間を超えて手または腕でボールをコントロールする、(7)ゴールキーパーが自分のペナルティー・エリア内で、ボールを手から放した後、他の競技者がそのボールに触れる前に手または腕でボールに触れる、(8)ボールが味方競技者によって意図的にゴールキーパーにキックされた、または味方競技者によってスロー・インされたボールを直接受けるために、ボールを手で触れる。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
ペナルティー・エリア内で守備側の選手が直接FKになる反則を犯すと、攻撃側にPKが与えられる。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
人間が日常もっともよく使う「手」を使わずに、それ以外の部分でボールを扱いながら、スピーディーに攻守がかわり、個人の技能が高度に発揮されると同時に、11人のチームワークを必要とする。ルールのなかで選手のプレーを制約するのはオフサイドだけで、1人でドリブルし続けようと、パスを前後左右いずれに出そうと自由である。それだけにチームにとって何がいちばんよいプレーかをつねに正しく判断できる能力が要求される。ボールをもっている1人に、他の10人がどのように絡み、チームとしての攻めを組み立てるか。それに対抗し、11人でゴールをどう守るか。仲間の意図を理解し、相手の考えを読むという戦術の基本をもとに、チームとチームがぶつかり合うところに、見る者の心をひきつける本当のおもしろさが生まれる。
[岡野俊一郎・大住良之 2019年10月18日]
『後藤健生著『サッカーの世紀』(1995・文芸春秋)』▽『アルフレッド・ヴァール著、遠藤ゆかり訳『サッカーの歴史』(2002・創元社)』▽『日本サッカー協会編『最新サッカー百科大辞典』(2002・大修館書店)』▽『日本サッカー協会編・刊『サッカー競技規則』各年版』
経糸(たていと)の縞(しま)目にあたる部分を、製織方法を変えることによって縮ませ、波状の変化をもたせた織物。シャーサッカーseersuckerといい、日本では単にサッカーと略している。製織に際して、長い経糸と短い経糸とを数本ずつ交互に配列して、それぞれ別の経巻に巻き、長いほうの経糸を緩く張っておくと、織るときの張力の違いによりすこしずつたるんで縞状に凹凸ができる。材料には綿・化繊などを使い、経縞、格子縞などにして婦人・子供服地、カーテン地に使う。日本でサッカーといっているものは、カ性ソーダなどの薬品によって生地(きじ)を収縮させたものや、繊度の異なる繊維を部分的に使い、外観的に似せている織物をも含めてサッカーとよんでいる。
[角山幸洋]
11人ずつの二つのチームが,手以外を使って,互いにボールを相手ゴールに入れ合うスポーツ。正式名称はアソシエーションフットボールassociation football。英語圏外の多くの国では,フットボールの名で一般的に呼ばれている。アソシエーションフットボールとは,1863年イングランドでそれまでいろいろ異なった形式で行われていたフットボールのなかで,最初に統一ルールを制定して競技を行った〈協会associationのフットボール〉を意味する。サッカーの語源は,アソシエーションassociationの慣用的省略形であることが一般的に認められている。すなわち,socにcを重ねerをつけ,サッカーsoccerとなった。日本ではア式蹴球(しゆうきゆう),または単に蹴球と呼ばれていた。蹴球は,日本の伝統的遊戯である蹴鞠(けまり)/(しゆうきく)の一種であるという解釈から名づけられたものである。
球状のもの(ボール)を足で扱う競技(フットボール)は,古くは中国で,蹴鞠という名前で,兵士の鍛練や一般市民の遊びとして広く行われていた。古代ギリシアやローマにもエピスキュロス,ハルパスツム,カルチョなどのボールを使った競技が存在した。これらとイングランドに誕生するサッカーとの関係についてはいくつかの説があるが,その信憑性は確かでない。
イングランドにおけるフットボールは,14世紀に入りフットボール禁止令という形で多くの記録が残されている。それは当時の国王や市長が,公衆の迷惑や弓術などの訓練のじゃまになるという理由で禁止したものである。この禁止令は歴代の国王によってたびたび発令された。この事実はフットボールが当時の市民に非常に愛好されていたことを裏づけるものである。17世紀に入ると,ジェームズ1世のスポーツ宣言などによってスポーツの価値が認められるようになり,さらに19世紀に入るとフットボールはパブリック・スクールの教育システムのなかに取り入れられ大きな成果をあげた。パブリック・スクールのフットボールはその卒業生によって大学や社会へと引き継がれていったが,それぞれの学校は独自のルールでゲームを行っていたためお互いの交流はなく,活動も一部の学校やクラブの範囲を出なかった。この不都合さを解消しようとしてルールの統一の試みはいろいろなところで行われた。これらの経緯を経て1863年10月,ロンドンとその近郊のクラブの代表によって,フットボール協会Football Association(略称,FA)が組織され,統一ルールを制定する会合がもたれた。そして同年12月統一ルールができ,そのルールで行うフットボールをアソシエーションフットボールと呼び,その略称としてサッカーが誕生した。このときのルールはまだ未熟なものであったが,その後いく度もの改正によって,現在のルールができあがっている。
このように誕生したサッカーを飛躍的に発展させたのは,1871年から始まったFAカップの大会であった。この大会は競技者ばかりでなく観衆に対しても大きな影響を及ぼし,競技場へ観衆を引きつけた。そのおもな原因は,FAの設立当時は上流階級のスポーツであったサッカーが,下層階級に急速に広まったためである。また,1850年以降労働時間の短縮による労働者の余暇時間の増大も大きく影響している。FAカップはまた,創設当時は大学やパブリック・スクール出身者の上流階級のクラブが優位を保っていたが,しだいにイギリス北部の労働者のクラブが力をつけ,上流階級のクラブを打ち負かすようになった。そのなかで注目すべきことは,すでに労働者のクラブのなかにプロと考えられる選手が存在していたことである。これらのクラブは選手に報酬を支払っていることを否定し,FAもその事実をつきとめることは難しかった。しかし,時代の流れは激しく,このような選手が多く出現するようになり,1885年FAはプロ選手を公認し,88年プロ・リーグの創設となった。当時これらのサッカークラブの支援者となることが,経済的発展をとげた商人階級がその社会的地位を確保するうえで有効でもあり,また選挙法の改正により労働者も選挙権を得た時代を反映し,政治家が選挙民の心をとらえる機会ともなった。このような経緯で,以降のサッカーを統轄する協会は,プロとアマチュアを同時に支配下に置き,大きな発展をみるわけである。イングランドで盛んになったサッカーはイギリス全土に広まり,スコットランド,ウェールズ,北アイルランドにも協会が設立された。それらの協会の間で試合が行われるようになり,ルールの調整の必要から4協会の代表によって1882年国際サッカー評議会International Football Association Boardが設立され,以後のサッカーのルールに関するすべての事がらがここで決定されることになった。
FAの設立以降,サッカーは大英帝国が海外に勢力を拡大するにしたがい,世界に広められていった。この世界への伝播に貢献したのは船員,軍隊,技術者,学生,商人,外国居住者などであった。ヨーロッパ大陸へは教育や商業を通して持ち込まれ,発展した。なかでもイギリスの産業の拡大によってヨーロッパ大陸の多くの大都市にイギリス人街ができ,彼らによってサッカーは急速に広められた。この現象は南アメリカでも同様で,とくにアルゼンチンを基点にウルグアイ,ブラジルへと広まった。こうしてサッカーは各国間の国際交流を盛んにし,非公式ながら1900年のパリ・オリンピック大会で試合が行われ,08年のロンドン大会からは正式種目となった。サッカーの隆盛は当然のことながら国際的機関の創立へと進み,1904年ヨーロッパの国々によって国際サッカー連盟 Fédération Internationale de Football Association(略称,FIFA(フイーフア))が組織された。このFIFAは,11年の南アメリカ諸国の加盟により大きく発展した。そして30年多くの人々の夢であった世界選手権(ワールドカップ)の開催を南アメリカのウルグアイで実現した。このワールドカップは以降のサッカーの発展に大きく寄与し,とくにヨーロッパと南アメリカの競い合いは,現在も世界的な関心を集めている。また,上記の2大陸のほかにアジア,アフリカ,北中米カリブ海,オセアニアの6大陸にそれぞれ大陸連盟が設けられ,サッカーは世界のあらゆるところで愛好されている。イタリア,イギリス,ブラジル等では,プロのサッカー試合でトトカルチョ(サッカーくじ)が行われることもあって,特に大衆的な人気を得ている。世界で広く行われているサッカーは,交通機関や情報伝達手段の発達により,ますます広がりをみせている。そのことがまた,大陸間や国のプレースタイルの特徴を超えたさらに高度なサッカーを追求する形となっている。国際サッカー連盟への加盟国・地域は198ヵ国(1997現在)にのぼっている。
一方,女子サッカーもすでに19世紀末にイングランドで対抗試合の記録がある。1970年頃からFIFA公認の国際試合も行われるようになり,91年にはのちにFIFA女子ワールドカップと呼ばれる世界選手権が開催された。オリンピックでは,96年のアトランタ大会から正式種目に採用された。
日本ではじめてサッカーの試合が行われたのは,1873年日本の海軍を指導するために招かれたイギリスのダグラス少佐一行によるものであった。その後体操伝習所の教師となったリーランドGeorge E.Lelandによって指導され,学校を通じて広められた。なかでも体操伝習所を吸収した東京高等師範では早くから蹴球部がつくられ,対外試合,全国各地への指導,サッカーの外国書籍の翻訳などを行った。1917年には東京芝浦ではじめての国際試合が行われたが,成績は不振であった。このことが契機となり,翌18年東京,名古屋,大阪でサッカーの大会が開催されている。日本サッカーの統轄団体である日本サッカー協会の前身は,21年大日本蹴球協会として創立され,同年11月から全日本選手権大会が開催されるようになった。協会の創立と全日本選手権開催には19年にイングランド・サッカー協会から大銀盃が送られたことが大きく影響している。その後,大学チームの間でリーグ戦が開始され,全国高校大会も開かれるようになった。昭和に入り日本のサッカーは大学を中心にめきめき力をつけ,30年の極東選手権大会では中国と優勝を分け合うまでになった。そして,36年初参加のベルリン・オリンピック大会でヨーロッパの強豪スウェーデンを破り,世界の注目をあびた。しかし,その後は戦争により,日本のサッカーはまったく衰退してしまった。
戦後活動が再開され,50年にはFIFAへ復帰,翌51年の第1回アジア大会に参加し,3位に入賞した。このころから外国チームを招いての国際試合や学生代表の海外遠征が行われるようになった。しかし,国際舞台での成績はいま一つ振るわず,56年のメルボルン・オリンピック大会では1回戦敗退,60年のローマ大会へは予選で敗退し参加できなかった。4年後に東京オリンピック大会を控えたその年,日本は西ドイツからクラマーD.Cramerをコーチに招き,強化を図った。クラマーの適切な指導と情熱により,日本のサッカーはまたたく間に実力をつけ,東京大会では南アメリカの強豪アルゼンチンを破り6位に入賞した。これを契機に日本のサッカーは大きく発展し,クラマーコーチの提言もあり,翌65年日本で初のアマチュアによる全国規模の日本リーグが組織された。この日本サッカーリーグは観客動員にも成功し,サッカーブームを呼びおこした。このころからサッカーは少年層に浸透し,全国に多くの少年サッカースクールが開設された。68年のメキシコ・オリンピック大会の出場権を得た日本は,準決勝で優勝チームのハンガリーに敗れはしたが,3位決定戦では地元メキシコを破り銅メダルを獲得した。
その後,国際的にはいま一歩であったが,国内では少年層への普及がめざましく,なかでもマスメディアに積極的に取り上げられた全国規模の少年大会,高校大会が普及に大きく貢献していた。88年のソウル・オリンピック出場権を中国に敗れることで逃した日本は,サッカーの活性化にはまず何よりプロリーグの創設をとの判断で,この年日本サッカー協会内に活性化委員会を設置し,5年後の1993年,日本プロサッカーリーグ,通称Jリーグを発足させた。Jリーグでは数多くの国際的選手が活躍している。日本のサッカーは国際的にそれまで果たせなかったアジアの覇者となり,アトランタ・オリンピックでは強豪ブラジルを破るなど確実にその力を高めている。97年11月にはワールドカップ(第16回フランス大会)に初出場し,2002年には日本と韓国で共催のワールドカップが行われた。
競技場は図のようである。四隅とハーフウェーラインの延長上にフラッグが立てられる。ゴールはゴールラインの中央に位置し,幅7.32m,高さは2.44mである。ボールは外被が革の球状で,外周は68~70cm,重さは410~450gと規定されている。プレーヤー各11人の2チームで行われる。チームに自陣のペナルティエリア内のボールを手で扱えるゴールキーパー(GK)が1人必ずいなければならない。また,ゴールキーパーは他のプレーヤーと識別できるように色の異なったユニフォームを着ける。交替要員は競技開始前に最大7名が提出され,そのなかから3名が交替できる。試合は主審1人,副審2人によって進行する。プレーヤーと異なった色のユニフォームを着け,主審は競技場内に位置し,笛をもって判定の最終決定を行い,副審は競技場外でラインに沿って動き,フラッグをもって主審を補佐する。
試合時間は前・後半45分ずつ,合計90分で,間には15分を超えないハーフタイムがおかれる。勝敗は得点の数によって競われる。得点はボールがゴールを完全に通過したとき1点となる。同点の場合は引分けとなり,なお勝敗を決しなければならないときは,前・後半15分ずつの延長戦が行われる。延長戦後,あるいは延長戦に代わってペナルティキック方式によって勝敗が決められる場合もある。これは両チーム5人ずつペナルティキック(PK)を行い,得点の多かったチームを勝ちとする方法である。5人で勝敗が決しなかったときは,6人目からは1人ずつの勝負で決まる。
試合開始はキックオフによって行われ,トスで勝ったチームが前半に攻めるゴールを決める。キックオフはまた,得点されたチームが試合を再開するときにも行われる。ボールが得点以外でゴールラインを越えたとき,攻撃側が最後に触れた場合は守備側のゴールキック,守備側の場合は攻撃側のコーナーキックとなる。コーナーキックはボールがラインを越えた側のコーナーエリアから行われる。ボールがタッチラインを越えたときはスローインが行われる。これは,最後にボールに触れた相手側プレーヤーによってボールがラインを越えた地点から行われる。ボールが競技場内にあるとき,試合が停止されるのはオフサイド,反則と不法行為,不慮の事故の三つの場合である。オフサイドは攻撃側プレーヤーに味方がボールをパスした瞬間,ボールを受けるプレーヤーと相手側ゴールラインとの間に守備側プレーヤーが2人以上いなかった場合に判定される。ただし,自陣のエンド,ゴールキック,コーナーキック,スローインではオフサイドは適用されない。プレーヤーのオフサイドの位置の判定は副審が行う。
反則と不法行為に課せられる罰は,直接と間接の二つのフリーキックに分けられる。直接フリーキックは,蹴られたボールが直接ゴールに入ったときに得点が認められるものである。間接フリーキックは,蹴られたボールが他のプレーヤーに触れた後ゴールに入らなければ得点と認められないものである。直接フリーキックで罰せられる反則は以下のようである。(1)相手を蹴る(キッキング),(2)相手をつまずかせる(トリッピング),(3)相手にとびかかる(ジャンピングアット),(4)相手をチャージする(ファウルチャージ),(5)ボールを奪うために相手にタックルをし,ボールに触れる前に相手に接触する,(6)相手を打つ(ストライキング),(7)相手をおさえる(ホールディング),(8)相手を押す(プッシング),(9)相手につばを吐く,(10)ボールを手で扱う(ハンドリング)。間接フリーキックで罰せられるものは,上記以外で危険と思われるプレー,オフサイド,反スポーツ的行為などがある。また,守備側プレーヤーが自陣のペナルティエリア内で直接フリーキックに相当する反則を犯したときは,相手チームにペナルティキック(PK)が与えられる。これは,ペナルティマークから攻撃側プレーヤーによって行われるフリーキックで,守備はゴールキーパーのみで他のプレーヤーはペナルティエリアに入ることは許されない。
サッカーは,二つのチームの間で1個のボールを巡って攻防が行われるゲームで連続性に富み,とくに攻撃と守備の切換えの迅速さが重要な鍵となる。競技場が広く,プレーヤーの数も多く,行動範囲がほとんど制限されないため,攻守のしかたはさまざまである。一般的に攻撃側が意図するのは相手守備の突破,広がりと厚みのある攻撃であり,守備側は相手攻撃の遅延,集中と厚みのある守備を心がける。ボールを運ぶ方法にはパスとドリブルがある。パスを主体に攻撃を組み立てるチーム,ドリブルを主体に攻撃をしかけるチームがあり,前者はまた,短いパス(ショートパス)と長いパス(ロングパス)を多用するチームに分けられる。これはスタイルの違いといわれている。南アメリカスタイルがドリブルを中心とした個人技のサッカーであるのに対し,ヨーロッパスタイルはパスを中心とした組織のサッカーといわれている。サッカーのスタイルは国によっても異なり,その国の歴史,気候,風土,国民性に大きく影響される。イギリスの激しさ,ドイツの組織力,ブラジルの個人技などはその典型である。
1チームのプレーヤーの配置はシステムと呼ばれる。ゴールキーパーを除く10人がそれぞれ役割をもって競技場に配置される。配置の方法についてはルール上いっさい制約を受けない。そこにサッカーの柔軟さと奥深さがある。通常,後方で守備を主体としてプレーするディフェンダー(DF),前線で攻撃を主体とするアタッカー(AT),その中間に位置するミッドフィルダー(MF)に分けられる。特定の機能をもったプレーヤーとしては,ディフェンスラインの後方に位置し守備を専門に行うスイーパー,自由に攻撃と守備に参加するリベロ,試合を組み立てるゲームメーカー,得点をあげることをおもな任務とするストライカーなどがあり,システムにとくに関係深い。これまでの代表的システムとして2BKシステム,WMシステム,4-2-4システム,スイーパーシステム,4-3-3システム,4-4-2システム,3-5-2システム,3-4-3システムなどがある。
執筆者:松本 光弘
表面に縦,横,または格子状の〈しぼ〉のある織物。本来はシアサッカーseersuckerといい,〈ミルクと砂糖〉を意味するペルシア語のshīr va shakkarに由来する。もともとインドで作られ,亜麻や木綿であったが,現在は絹やレーヨンでも作られる。〈しぼ〉は張力の異なる糸を経,緯に用いて凹凸を作るが,苛性ソーダなどを用いた薬品処理を行うこともある。一般に薄手で,〈しぼ〉のさらりとした触感から夏物衣料に用いられる。
執筆者:池田 芙美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
「サッカー科」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
…サッカーやラグビーやアメリカン・フットボールなどのフットボール系統の競技や,ホッケーやアイスホッケーといったスティックを使う球技,それに水球などで,相手ゴール方向への行動を制約している規定。一般的にボール(アイスホッケーではパック)を支配保持していないプレーヤーが対象で,ボールよりも前方の,ルールに定められた侵入禁止地域やプレー禁止地域に位置すること,およびその地点でプレーする反則をいう。…
…サッカーを意味するイタリア語カルチョcalcioと賭金の合計を意味するトータリザトーレtotalizzatoreの合成語でスポーツ賭博の一つ。日本ではサッカーくじとも呼ばれる。…
※「サッカー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新