目次 自然,住民 政治 経済,産業 社会,文化 歴史 基本情報 正式名称 =イラク共和国al-Jumhūrīya al-`Irāqīya/Republic of Iraq 面積 =43万5244km2 人口 (2010)=3200万人 首都 =バグダードBaghdad(日本との時差=-6時間) 主要言語 =アラビア語,クルド語 通貨 =イラク・ディナールIraqi Dinar
アジア南西部の共和国。日本の奄美諸島から北関東とほぼ同緯度の北緯30゜から37゜の間に位置し,北はトルコ,西はシリアとヨルダン,南はサウジアラビアとクウェート,東はイランに境を接する。メソポタミア文明の故地として知られる。
自然,住民 トルコ東部に発するティグリス川 とユーフラテス川 とによってつくられる沖積平野が国土の4分の1を占めるが,北部のティグリス川とその支流小ザーブZāb al-ṣaghīr川の上流,および北東部のザグロス山脈に連なるイランとの国境地帯は,山岳地帯である。また西部はシリアとサウジアラビアにまたがる砂漠で,国土の約半分を占める。ティグリス,ユーフラテス両川はバグダード以南で極端に平坦となり,特にナーシリーヤNāsirīya,アマーラ`Amāra,クルナQurna間の広大な地域で湖水・湿地帯をつくり,クルナで合流してからはシャット・アルアラブ 川となってペルシア湾に注ぐ。
気候は三つの型に分かれ,北部山岳地帯は地中海性気候で年間降雨量は400~1000mm程度,山岳地帯と砂漠の間,沖積平野はステップ気候で200~400mmの降雨量がある。しかし国土の7割が熱帯砂漠性気候で,降雨量は50~200mmである。降雨のほとんどが冬期に集中し,またトルコ山岳部の春先の雪どけ水が流入するため,毎年ティグリス川は4月,ユーフラテス川は5月に増水の頂点に達し,しばしば洪水を引き起こしてきた。気温は,北部山岳地帯では夏でも35℃をこえないが,砂漠性気候の地域では夏の日中気温は45~50℃となる。
人口は1992年統計で1895万人で,うち6割強が都市人口である。また人口の過半数が20歳未満である。住民の約8割弱はアラブで,15~20%のクルド のほか,トルコマンTurkman人,アッシリア人,アルメニア人が存在する。公用語はアラビア語とクルド語。イスラム教徒が95%を占め,その半数以上がシーア派である。シーア派はバービルBābil州以南の中南部地域とバグダードに多く,スンナ派アラブはバグダード以北モースル以南の中部地域に多い。クルドは大半がスンナ派であるが,一部フェイリーFaylīyyaと呼ばれるシーア派もいる。クルド人の居住地は主に北部のドゥホークDahūk,アルビール`Arbīl,スライマーニーヤSulaymānīyaのクルディスターン 3州に集中しているが,キルクークにも多く,同様に同地に多く居住するトルコマン人との間にしばしば対立が発生する。キリスト教徒にはネストリウス派,カルデア教会,ギリシア正教会,アルメニア教会,カトリック,プロテスタントなどの信徒がいる。なお,南部水郷地帯には少数ながら古代キリスト教徒であるサービアṣābi'a教徒が居住する。
政治 現在の政体は共和制。議会(1980年成立)は任期4年の一院制をとるが立候補資格に体制支持が義務づけられ,御用議会となっている。最高意思決定機関は〈革命指導評議会〉(RCC)で,その議長が大統領を兼任する。憲法は,1958年革命で王制下憲法が廃棄された後,1970年に暫定憲法,90年には恒久憲法の策定が行われたが,湾岸戦争の混乱で実際には実施に至っていない。1970年代と96年以降の一時期,一部の親政府派クルド勢力や共産党,アラブ民族主義勢力に政権参加を認めて形式的な複数政党制を採用したが,実質的にアラブ社会主義バース党 の一党独裁体制をとる。1974年にクルディスターン3州が自治区に設定されたが,その権限はきわめて限定されている。
イラクは1921年イギリス委任統治下で王国として成立,32年に正式に独立したが,イギリス・イラク条約によってイギリスの間接統治は続き,ヌーリー・アッサイード ら親英派の旧オスマン軍人・官僚を中心とした政権が続いた。これに対して1930年代後半以降,イギリスの対アラブ,特にパレスティナ政策に反発するアラブ民族主義勢力や,王制下の封建主義政策によって生じた階級格差の拡大を問題視する共産主義・社会主義勢力が生まれた。他方,民族的,宗教的,部族的に複雑な構成をもつイラク社会の早急な国民統合と治安維持を図るため,王制下各政権はイラク国軍の強化に努めた。33年にはアッシリア人への弾圧,35-36には徴兵反対暴動を起こした南部部族の反乱鎮圧に国軍が起用され,国軍は国内治安維持に欠かせない存在として認識されるようになった。その結果36年のバクル・スィドキーBakr ṣidqīによる軍クーデタを契機として軍人の政治介入が頻繁となり,41年には民族主義軍人がラシード・アリー・アルキーラーニー を擁して反イギリス政権を樹立したが,この政権はイギリスの直接軍事介入により短期間で崩壊した。
第2次大戦後の冷戦構造のもとでイラクは反ソ・ブロックの要としてバグダード条約機構の推進者となり,議会内リベラル野党勢力,民族主義勢力,共産主義勢力が政府の対イギリス従属姿勢に対する反発を強めた。特に52年のエジプト革命,56年の第2次中東戦争でのナーセル・エジプト大統領の威信確立に刺激を受けた軍人の間に,クーデタによるイギリス支配からの脱却への志向が強まった。58年には王制下の矛盾が噴出する形で王制打倒・共和制革命が発生し,その結果カーシム`Abd al-Karīm Qāsim将軍が政権を掌握した。カーシムは大衆動員力を持つ共産党,および軍内に影響力を持つアラブ民族主義勢力を支持基盤に社会主義体制を基本とした体制を確立した。しかしクーデタ実行時の協力者であるアーリフ`Abd al-Salām `Ārifとその支持者たるアラブ民族主義勢力との間に,エジプトとの国家統合問題をめぐって齟齬(そご)を生じ,民族派を排除して共産勢力に依存する姿勢をとった。カーシムに排除されたアラブ民族主義軍人は63年クーデタを起こし,アーリフ兄弟によるアラブ民族主義政権を築いた。しかし63年にアーリフに協力して政権参与しながらすぐに政権を追われたバース党は,68年に一党独裁を目指してクーデタを敢行,アフマド・ハサン・アルバクルAḥmad Ḥasan al-Bakr(1914-82)によるバース党政権を確立した。
経済,産業 イラクの産業別GDPは,1991年段階で公務員など社会サービス部門が最も大きく(26%),次いで運輸・流通(23.6%),農林水産業(23.1%),製造業(11%)である。また就業人口別に見れば,社会サービス部門を除いて運輸・流通(38.9%)が最大で,次いで製造業(37%),農林水産業(9.6%)である。油田開発開始以前のイラクは,もっぱら農業国として湾岸地域で重要な位置を占めていた。オスマン朝支配の末期には特に南部のナツメヤシが同地域における主要輸出産品で,また灌漑米作地帯としての南部,天水による小麦生産を行う北部・中部は穀倉地帯として重視されていた。オスマン朝末期およびイギリス委任統治下では,政府は南部・北部の有力部族への支配を強化するために,部族支配層に従来の部族共同所有地の私有を認める政策をとった。そのため,精神的・軍事的指導者だった地方部族長は封建的地主へと性格を変化させ,広大な土地所有者となり,多くは不在地主となって王政下での支配階級を形成した。地主権力の大きさを支える要因の一つにイラク農業における膨大な灌漑投資の必要性があり,特に南部農村ではポンプ灌漑への全面的依存,塩害を防ぐための恒常的な措置が不可欠である。その一方で小作人と化した部族民は農村での貧困にあえぎ,1940年代以降大量の離村農民となって都市部に流入,スラムを形成して社会問題となった。
共和制革命以降は,大土地所有を禁止する農地改革が58年,70年に実施された。特にバース党政権下で実施された70年改革後は,農地は主として国有農場,社会主義協同農場として再編された。しかしいずれの改革においても,土地接収は順調に実施されたものの分配に遅延が見られ,十分な効果をあげなかったことから,農業生産の飛躍的向上にはつながらなかった。70年代以降の石油輸出額の増加に伴う政府投資の増大をもってしてもこうした状況は改善されず,また政府開発計画自体が工業投資・公共事業投資を優先したため,1950年代に自給可能だった農業生産は70年代にはその3割を輸入に依存せざるをえなくなった。またGDPにおける農業の占める比率は湾岸戦争まで5~8%でしかなかった。80年のイラン・イラク戦争開始後は,戦場が南部国境地域に集中したことから,南部農地への投資はますます低下し,その結果塩害が進行するまま放置された土地が増えている。また80年代後半には政府財政の悪化から農業分野での民営化が進み,効率の悪い国営農場,協同農場の民間払い下げが進められた。
工業部門では,19世紀半ばから日乾煉瓦,皮革,紡織,セッケンなどの製造業があった。伝統的産業として,渡河船製造業がティグリス,ユーフラテス流域の地方小都市で栄えていたが,19世紀末以降の河川交通の発達,橋梁建設の進展によって没落し,失職した若年層の多くは都市に流入して新設のイラク国軍に吸収された。工業の近代化が進むのは第2次大戦以降で,戦後の工業製品に対する需要増と石油収入増大に支えられて工業投資の伸びをみた。1960年代以降は石油化学,肥料製造,鉄鋼,セメント産業を中心に,バスラ 周辺に巨大コンビナート群が建設された。70年代以降は石油輸出による収入安定化によって,輸入代替産業の育成,促進の必要性が薄れたが,80年代後半にはイラン・イラク戦争の長期化により軍事物資の国産化の必要が生じ,軍事産業委員会を核として各種大量破壊兵器の製造に力点が置かれた。石油以外の工業のGDPに占める比率は,1970~80年代を通じて5~10%程度である。
イラク経済の柱となる石油が発見されたのは1909年で,27年にキルクーク で最初の商業生産が行われた。その利権は1925年以降イギリス系企業(1925年イラク石油会社,32年モースル石油会社,38年バスラ石油会社)に与えられ,1930年代に地中海沿岸に至るシリア経由パイプラインによる原油輸出が開始された。第2次大戦以降は50年代以降の原油生産の増大,52年からの利権料支払での折半方式採用により,石油収入は着実に増加していった。石油収入が飛躍的増大をみたのは73年以後である。政府は1960年代から主要産業の国有化政策を進め,72年にイラク石油会社の完全国有化を実施した。そして同年から始まった石油価格急騰の恩恵を受けて,石油輸出額は72年の14億ドルから74年には70億ドルに急増した。さらにイラン革命を契機とする79年の第2次石油価格高騰によって,79年に214億ドル,80年には263億ドルとなった。輸出ルートも1977年にトルコ経由のパイプラインが建設されたほか,85年以降サウジアラビア経由,トルコ経由第2パイプラインが新設され,現在パイプラインのみで315万バレルの輸出能力を持つ。それに伴い石油生産能力は1970年代初めの日量240万バレルから70年代末には400万バレルに増大した。現在石油埋蔵量は1000億バレルで,サウジアラビアに次いで世界第2位である。 執筆者:冨岡 倍雄
社会,文化 イラク社会は民族的にも宗派的にも複雑なため,その分裂と統合が常に問題となってきた。北部のクルド人は1920年代から部族長を中心とした自治・独立運動を繰り返し,50年代末から現在に至るまで政府に対する一大圧力団体となっている。政府が75年に大掃討作戦を行った結果,バルザーニーBarzānī一族を中心とした反政府勢力は打撃を受けて分裂したが,88年の政府による対クルド化学兵器攻撃への反発から再編され,湾岸戦争後には独自に自治選挙を実施,92年に自治政府を樹立した。
アラブ・シーア派が多く居住する南部は,1950年代末までは大土地所有制度に起因する貧富の格差が顕著となった地域であり,共和制革命後も十分な開発政策がなされず,相対的な貧困状態に置かれた。加えてナジャフ ,カルバラー といったシーア派聖地を中心としてイスラム知識人のネットワークが堅固に維持され,歴史的に中央政府の世俗近代化政策に抵抗する拠点となってきた。特に50年代以降共産主義,社会主義運動の伸長,近代世俗教育の広がりから,イスラム知識人の間に危機感が高まり,イスラム復興主義運動が発生した。70年代以降は,相対的貧困に対する経済的不満をイスラム知識人の活動が代弁する形で,南部および都市貧困地域を中心に運動が政治化・武装闘争化した。その結果,イラン革命,イラン・イラク戦争開始以後は,政府によるシーア派住民に対する弾圧が強化された。湾岸戦争直後の91年3月には,クルドとともに南部シーア派住民の多くが反政府暴動に加わったが,その報復として政府は92年以降南部湿地帯の乾燥化政策を進め,南部農地の水利体系を破壊した。
イラク社会は歴史的に部族集団の自立性が強く,その多くが20世紀前半に地主化して中央政府への従属を進めたものの,社会的紐帯としての部族意識は堅固に残っている。共和制革命以降の社会経済政策の結果,国民の生活水準の平準化が進み,中産階級の比率の高い社会が構成され,伝統的部族意識は近代市民社会の萌芽の中で衰退の方向にあった。しかし1980年代以降フセイン政権が自らの勢力基盤確立のために地縁閥を多用したことから,再び部族意識が政治的社会的動員手段として再認識され,湾岸戦争以降は部族社会の復活が顕著になっている。
イラクの出版・文化活動については,その萌芽はアラブ世界の中でも早く,オスマン朝末期に初めてのアラビア語紙《ザウラーZawrā'》が発行された。オスマン帝国の衰退とイギリス支配のもとでアラブ文芸復興運動が活発となり,アラブ民族主義運動の文化的基盤を形成した。バース党政権成立以後の出版・文化活動は完全な情報統制下に置かれ,日刊紙として党機関紙《アッサウラal-Thawra》,政府機関紙《ジュムフーリーヤal-Jumhūrīya》,軍機関紙《カーディシーヤal-Qādisīya》が発行されている。湾岸戦争以降はフセイン大統領長子のウダイUday Ṣaddām(1964-2003)が主宰する《バービル》紙が発刊され,政府批判を通じて閣僚人事を左右している。なおウダイは青年向けテレビ放送をも持つ。
文化政策においても政権基盤の強化を目的とした大衆文化操作が行われ,フセイン大統領と新バビロニア帝王のネブカドネザルを同一視するなど,フセイン個人独裁の正当化のために歴史的人物,行事の再評価が行われている。イスラムについては,バース党はアラブ文化の重要な特質の一つとして評価しつつも世俗主義を党政策の基本としてきた。しかし湾岸戦争中に,フセイン政権はアメリカの攻撃に対してジハード(聖戦),殉教などの宗教的意味づけを強調し,以後国旗に〈神は偉大なり〉の文言が加えられた。
イラクの教育制度は共和制革命以降,義務教育制を導入して6・3・3・4制をとる。またバース党政権は,教育機関を通じての党思想教育の徹底と将来の国家エリート育成のためにすべての教育を無料化した。私立学校は1970年代にすべて国有化されたものの,80年代末期から戦時下での徴兵回避のために進学希望者が増大したことから,私立大学設立が許可された。
歴史 イラク地方はかつて〈二つの河の間の土地〉,すなわちメソポタミア と呼ばれ,シュメール,アッカド,バビロニア,アッシリア,新バビロニアなどのメソポタミア古代文明国家が栄えたことは,周知のとおりである。新バビロニアはアケメネス朝ペルシアに滅ぼされたが,その後アレクサンドロス大王の西アジア征服を経てパルティア 王国,ササン朝 とペルシア系王朝支配が続き,後者はバグダード南方のクテシフォンを首都にした。
イラク地方は637年,第2代正統カリフのウマルの治下にイスラム世界に組み込まれた。第4代正統カリフのアリーはクーファ を首都としたが,657年シリアを拠点とするムアーウィヤと対立,その後暗殺された結果,ダマスクスを首都とするウマイヤ朝が成立した。アリーの支持者はアリーの党派(シーア派)と呼ばれ,その反ウマイヤ活動によってアッバース朝のウマイヤ朝打倒に利用された。アッバース朝 はバグダードを都としたため,バグダードはイベリア半島,東アフリカ,インド,ジャワ,中国,さらには北の諸河川を通じてスカンジナビアに連なる世界貿易の中心地となり,イスラム文明の黄金時代が築かれた。アッバース朝の衰退とともに10~11世紀にはイラン系ブワイフ朝とトルコ系セルジューク朝が相ついでバグダードに入城したが,カリフ制は形式上は存続した。しかしフレグ(フラグ)の率いるモンゴル軍によってアッバース朝は名実ともに滅亡する。そしてティムール朝,サファビー朝などの異民族王朝の支配を受けた後,16~17世紀のサファビー朝とオスマン帝国との抗争を経て1638年に最終的にオスマン帝国 の属州となった。しかしその支配は安定せず,18世紀初頭から19世紀前半までオスマン朝中央政府から自立したマムルーク の支配が続いた。また地方では,南部はムンタフィクMuntafiq,カアブKa`bなどの部族連合が,北部はジャリールJalīl家,バーバーンBābān家などの名望家が実質的に支配していた。
19世紀後半以降,オスマン朝政府は中央集権化・近代化政策を推進したが,欧米列強の中東への本格的進出の過程で,イラクはイギリスの覇権拡大に対するオスマン帝国の最前線となった。第1次大戦が勃発すると,イギリスはオスマン朝下で不満を持っていたアラブ軍人,知識人に接近,そのアラブ民族意識を利用してオスマン帝国の内部からの切り崩しを図った。しかしイギリスはアラブ独立運動に協力的な姿勢を見せつつフランスとサイクス=ピコ協定 を結んで戦後の中東分割を策した。このため,シリアでハーシム家のファイサル (1世)とともにアラブ王国樹立を支えた〈イラク誓約協会〉の間にイギリスへの不信が生じた。また1917年のイギリスのバグダード占領以降,イギリス支配に対する反感が国内各地で広がり,19年にイギリスが将来のイラク直接支配を確定するための国内世論調査を開始すると,独立防衛協会Haras al-Istiqlālなどの政治組織が生まれて反英活動が活発化し,中南部を中心とする反英暴動が起こった。21年にファイサルを国王とするイラク王国が生まれたが,トルコとの間で帰属が未決着だったモースル州は25年にイラクの主権下となった。 執筆者:酒井 啓子