イギリスの政治家。9月12日ヨークシャーに生まれる。オックスフォード大学を卒業後、政界に入り、グラッドストーン派の自由党下院議員として頭角を現し、1892~1895年、内相として入閣した。第二次ブーア戦争中は、戦争を支持する自由帝国主義者の一員となった。1905~1908年に蔵相を務めてから、1908年4月首相に就任し、ロイド・ジョージ蔵相とともに「人民予算」を成立させた。さらに、保守党の激しい抵抗を押し切って、上院の力を制限する議会法を1911年に制定した。イギリスを第一次世界大戦に参戦させ、1915年5月弾薬不足とダーダネルス作戦の失敗の責任を問われて、自由党単独政権の維持が不可能になったのちも、連立内閣の首相として残ったが、より効率的な戦争指導を求める声のなかで、1916年12月辞任に追い込まれた。それ以降は、自由党反ロイド・ジョージ派の領袖(りょうしゅう)として活動した。1928年2月15日没。
[木畑洋一]
イギリスの自由党政治家。父はヨークシャーの非国教系の織物業者。オックスフォード大学卒業後,弁護士となり,1886年に下院に入る。92-95年グラッドストン内閣の内務大臣,1905年キャンベル・バナマン内閣の大蔵大臣をへて,08年病気辞職した同首相の後を継ぐ。アスキス内閣は,多くの社会立法を行い,09年ロイド・ジョージ蔵相の〈人民予算〉をめぐって上院と対立すると,〈議会法〉を成立させて上院の権限削減を断行した。14年第1次世界大戦が勃発した時,グレー外相の方針を支持し,ドイツのベルギー中立侵犯を機に閣内の結束を固めて対独宣戦したが,ロイド・ジョージらにその緩慢な戦争指導を批判され,16年辞職した。両者の争いは,後に自由党の没落を招く。沈着冷静な判断力と高潔な人格で知られ,著書に《大戦の起源》(1923),《国会生活50年》(1926)などがある。
執筆者:池田 清
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1852~1928
イギリスの政治家。オクスフォード大学卒業後弁護士,1886年以来自由党所属下院議員,92~95年内相,1906~08年蔵相をへて,首相(在任1908~16)。09年予算案が貴族院で否決されると,翌年2度の総選挙に勝って,11年議院法を成立させて貴族院の権限を弱めた。14年第一次世界大戦勃発の際グレー外相を支持して対独宣戦を決し,翌年連立内閣を構成したが,その戦争指導に対する批判が高まって16年辞職,ロイド・ジョージに首相の座を譲った。大戦終結後の選挙で落選したが,復帰を果たした。26年まで自由党党首を務めたが,この時期自由党は内部対立で弱体化した。25年伯爵に叙せられた。
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…90年下院に入り,南ア戦争の際には,時の植民相J.チェンバレンの帝国主義政策を激しく攻撃するなど,自由党急進派の雄弁な闘士として知られた。1905年キャンベル・バナマン内閣に商務院総裁,08年アスキス内閣に蔵相として入閣。09年,海軍増強と社会政策の財源を富者の税負担に求める画期的な〈人民予算People’s Budget〉を提出して,保守党の地主,貴族の猛反対にあう。…
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