ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アナスタシウス2世」の意味・わかりやすい解説
アナスタシウス2世
アナスタシウスにせい
Anastasius II
[没]498.11.19. ローマ
ローマ出身の第50代教皇(在位 496~498)。484年に教皇フェリクス3世(2世。在位 483~492)がコンスタンチノープルの総大司教アカキウスを破門して以来,東西キリスト教会は分裂していたが,アナスタシウス2世はビザンチン皇帝アナスタシウス1世(在位 491~518)に教皇登位を告げた際,アカキウスに妥協的な姿勢を示した。この行動は,教皇がアカキウスの破門撤回を望んだとの非難を招き,多くの人々からローマ教会の教義に対する裏切りとみなされるにいたった。アナスタシウス2世はこの論争のさなかに死去した。ビザンチン帝国の助祭フォチヌスにより,異端的な考えへ誘導されたとする説もある。ダンテ・アリギエーリは,『神曲』の「地獄編」第11歌8行の中で,アナスタシウス2世を地獄第6圏の異端者の一人に数えている。
アナスタシウス2世
アナスタシウスにせい
Anastasius II
[没]721
ビザンチン皇帝(在位 713~715)。軍の反乱によって退位した皇帝フィリピクス・バルダネスに代わり,宮廷の秘書官長を務めていたアルテミウスが皇帝に選出され,アナスタシウス2世として即位。前帝の支持したキリスト単意説を否定し,第3回コンスタンチノープル公会議の決定を再度支持。イスラム軍の首都コンスタンチノープル攻撃に対抗し,遠征軍をロードス島に送ったが,遠征軍は小アジアのテマ・オプシキオンで反乱を起こし,715年徴税官テオドシウスをテオドシウス3世として反対皇帝に擁立。6ヵ月の内乱後,テオドシウス3世に敗れ,アナスタシウス2世は退位,716年修道士となってテッサロニカの修道院に入った。720年王位への復帰をねらったが失敗。721年レオ3世により処刑された。
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