日本大百科全書(ニッポニカ) 「アムルサナ」の意味・わかりやすい解説
アムルサナ
あむるさな
Amursana
(?―1757)
オイラート人、ホイト部長。ジュンガル王国末期の1750年、ガルダン・ツェリンの子ラマ・ダルジャがハンとなった際、チョロス部のダワチらとともに同じガルダン・ツェリンの幼子ツェワン・ダシをたてて争った。しかし失敗し、西方のカザフスタンへ逃れた。1752年末ジュンガリアに戻り、ふたたびラマ・ダルジャと争い、これを倒すとダワチをハンに擁立し、自らはその補佐についた。しかし1754年、ダワチと不和となり、争って敗れると清(しん)朝に降(くだ)った。同年11月、熱河(ねっか)において乾隆(けんりゅう)帝に謁見し、親王の爵を得た。1755年2月、清朝のジュンガル遠征が開始されると、北路の副将軍に任じられた。同年5月ジュンガル王国が滅亡すると、乾隆帝はジュンガル王国を四分し、アムルサナをホイト部長に任じた。しかし彼はジュンガル全体のハンになることを望み、同年秋に反乱を起こした。清朝から追討軍が派遣されるとカザフスタンに逃れ、さらに1756年末ロシア領に逃れた。その後ロシアとの接触を図ったが、1757年7月末セミパラチンスク(現セメイ)付近で天然痘にかかり、同年9月なかばトボリスクで死去した。アムルサナの行動に対する評価は二分され、旧ソ連、モンゴルでは、清朝からの独立を目ざしたモンゴルの英雄として、また中国では祖国の分裂を謀った人物としての評価を得ている。
[森川哲雄]