アーザード(英語表記)Abul Kalam Āzād

改訂新版 世界大百科事典 「アーザード」の意味・わかりやすい解説

アーザード
Abul Kalam Āzād
生没年:1888-1958

インドムスリムの代表的思想家,政治家メッカ生れで,のちカルカッタ移住。厳格な宗教的教育を受けたが,サイイド・アフマド・ハーンの著作に触発され,思想的遍歴をたどり,コーランは科学と矛盾しないとの信念を堅持した。しかしムスリムの近代派であるアリーガル運動に背を向け,反英的デーオバンドDeoband派に接近した。1912年ウルドゥー語週刊誌《ヒラールal-Hilāl(新月)》を発刊,その政治的・宗教的急進性によってムスリム青年層を引きつけた。ヒラーファト運動で理論家として主導的役割を果たした後,20年以降ガンディー指導下の国民会議派の活動に参加し,23年(臨時大会)と40年に会議派大会議長を務めた。第2次世界大戦後の対英政治交渉では,会議派内の代表的ムスリム指導者として活躍したが,ネルーら会議派の他の指導者との間に対立もあった。独立インドの初代文相で,自伝的著書に《インドの独立India Wins Freedom》(1959)がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アーザード」の意味・わかりやすい解説

アーザード(Abul Kalām Āzād)
あーざーど
Abul Kalām Āzād
(1888―1958)

インドのムスリム政治家、思想家。本名フィーローズ・バフトFiroz Bakht。インド人イスラム学者を父にメッカで生まれ、のちカルカッタ(現コルカタ)に移る。教育は父からの伝統的宗教教育のみ。1905年ベンガル分割反対の民族運動に参加、ムスリムの政治意識高揚のため、1912年『アル・ヒラール』誌、1915年『アル・バラーグ』誌を発刊。1920年カリフ制擁護運動を指導、1923年、1940~1946年国民会議派議長を務め、ヒンドゥーとムスリムの協調、統一インドの独立を目ざした。1947年インド独立後は、死去の年まで国民会議派の長老としてネルー政権の教育相を務めた。

[浜口恒夫]

『Maulana Abul Kalam AzadIndia Wins Freedom;an Autobiographical Narrative (1958, Orient Longmans, Bombay)』


アーザード(Āzād)
あーざーど
Āzād
(1830―1910)

インドの文章家詩人生地のデリー・カレッジでアラビア語を学んだ。ハーリーとともにウルドゥー近代詩の開拓者として名高い。年代順の記述による最初のウルドゥー詩人伝『生命の水』(1880)、随筆集『思考の魅惑』(1880)など多くの著書がある。晩年の20年間は精神障害のうちに終わった。

[鈴木 斌]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アーザード」の解説

アーザード
Abul Kalam Azad

1888~1958

インドの政治家。メッカに生まれ,カルカッタで伝統的なイスラーム教育を受けるが,西洋近代教育にも関心をもつようになる。ウルドゥー語週刊誌『アル・ヒラール』の発行に携わるが,1920年代以降はインド国民会議派の運動に参加する。会議派の代表的なムスリム指導者として,議長を2度務めた。独立後はインド政府の文相の地位についた。

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百科事典マイペディア 「アーザード」の意味・わかりやすい解説

アーザード

インドの政治家,学者。アラビアのメッカ生れ。イスラム神学を修める。1898年インドに渡って,カルカッタ(コルカタ)でイスラム教徒のための新聞を発行して投獄される。国民会議派に参加し独立運動を展開した。インド・パキスタン分離独立には反対した。インド独立後は,ネルー内閣で教育科学研究相などを務めた。

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