サイイドアフマドハーン(その他表記)Sayyid Aḥmad Khān

改訂新版 世界大百科事典 「サイイドアフマドハーン」の意味・わかりやすい解説

サイイド・アフマド・ハーン
Sayyid Aḥmad Khān
生没年:1817-97

インドのムスリムの社会改革家。デリーのムガル貴族の血を引く名門の出であるが,その家柄インド大反乱セポイ反乱)以前にすでに没落していた。父の死後21歳のとき,周囲の反対を押し切って東インド会社の司法官吏となり,判事補にまで昇進したが1876年に退職。彼はイギリス支配を善意によるものとして受け入れ,ムスリムの間の反英抵抗の思想を否定,親英的態度を保ち,インド大反乱に際してもイギリス側に忠誠を表明した。イギリス思想,近代自由主義を高く評価し,ムスリムの社会的地位向上のために,ムスリムのための近代教育機関の必要を説き,1875年北インドのアリーガルにイギリス式の高等教育機関を設立,以後アリーガル運動を指導した。晩年アフマド・ハーンヒンドゥーに対するムスリムという対抗意識をしだいに強め,ムスリム上層の不安を代弁して,国民会議派によるイギリスに対する権利要求を,会議派によるムスリム支配だとして反対するようになり,後のムスリム連盟の思想的基盤を築いた。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「サイイドアフマドハーン」の解説

サイイド・アフマド・ハーン
Syed Ahmad Khan

1817~98

インド・ムスリムの社会改革家。代々ムガル宮廷に仕える名家に生まれたが,宮廷には出仕せず,イギリス東インド会社に奉職した。宗教の面では,コーランの教えと近代的な科学法則とが共通することを示そうとするなど,イスラーム近代主義的な解釈をした。同時に北インドの上層ムスリムの間に,英語による西欧式の教育を普及させることに努め,74年にはアリーガルにアングロ・ムハマダン・オリエンタル・カレッジを設立した。ハーンが推進した近代主義的な改革運動はアリーガル運動と呼ばれる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サイイドアフマドハーン」の意味・わかりやすい解説

サイイド・アフマド・ハーン
Sayyid Ahmad Khān

[生]1817.10.17. デリー
[没]1898.3.27. アリーガル
インドのイスラム学者,教育者。ムガル宮廷の名家に生れ,イギリス植民地政府の属吏をつとめ,インド大反乱を目撃して,その原因論を書いた。退職後,イスラム教徒の教育に努め,1875年にアリーガルに大学を創設し (→アリーガル大学 ) ,西欧的な高等教育を施した。またイスラム教徒の社会改革にも尽力し,85年のインド国民会議の開催にあたっては,イスラム教徒の権益を主張して参加せず,アリーガルで独自の組織をつくった。

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世界大百科事典(旧版)内のサイイドアフマドハーンの言及

【ムスリム連盟】より

…19世紀末ごろから,インド国民会議派はイギリスに対して自治・代議制についての要求を高めたが,これに対して,ムスリム間にヒンドゥー優位との不安が高まり始めた。こうしたムスリムの不安を代弁していたのが,サイイド・アフマド・ハーンであった。1905年のベンガル分割令に対する反対運動の中でアリーガル大学を中心としてムスリム独自の政党設立が試みられた。…

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