イタリア北部の州。面積2万3861km2,人口939万3092(2004)。州都はミラノ。地名は,中世初頭ビザンティン勢力のもとにあったラベンナを中心とする地方をロマーニャと呼んだのに対置して,6世紀以降,ロンゴバルド(ランゴバルド)族の勢力下にあった地帯を,ロンゴバルディアLongobardiaと呼んだのに由来している。ロンゴバルド(ランゴバルド)王国は,774年カール大帝によって征服され,888年イタリア王ベレンガーリオ1世のときに,ロンゴバルディアはミラノを中心とする辺境州と定められた。このころから,中央アルプスとポー川中流部とに挟まれた地帯をロンゴバルディア,のちにはロンバルディアと呼ぶことが定着した。
大きく分けて,山地・丘陵地帯と平野部から成っている。山地・丘陵地帯は,ベルニナ山(4049m)をはじめとする高峰から,いくつかの氷河谷や氷河湖,前アルプス山地および氷河性堆積物から成る丘陵地帯に至るまで,地形的にも地質的にも多様である。平野部は,アルプス山地からポー川に注ぐ多くの支流によってつくられた複合扇状地である。ここが現在のようなイタリア有数の豊かな農業地帯になったのは,灌漑および排水路の建設を伴う土地改良事業が行われた結果である。ポー川および主要な支流,さらに支流を結びつけて建設された運河網は,灌漑水路としてのみでなく交通路としても,歴史的に重要な役割を果たした。
ロンバルディア,とくに平野部の気候は大陸的であり,平野部の冬の平均気温は2℃で寒さが厳しく,この点,イタリアの他の地域とは非常に異なっている。局地的にみれば,ガルダ湖,コモ湖,マジョーレ湖などの大きな氷河湖に沿って冬の気候が温暖で,また年間を通じて降水量の多い地帯がある。
先史時代については,ロンバルディア全般にわたって新石器時代以降の遺跡が数多く発見されている。前5世紀,ケルト系諸族の侵入とともに歴史時代が始まるが,ケルト人の痕跡は,住民の体質および方言などに強く残っている。前220年ころ,平野部はローマ人によって征服されたが,山地住民の反抗はアウグストゥス帝のころまで続いた。アウグストゥス帝の行政区画のもとでは,東部はベネチアに,西部はトランスパダーナに属していて,ロンバルディアという地域単位が形成されたのは,先述のようにランゴバルドの支配が確立してから後のことである。
11世紀および12世紀にはミラノ,コモ,ローディ,クレモナ,パビアなどのコムーネがイタリアの他の地域に先駆けて発達した。これらの都市国家は,当初の共和制からシニョーレ(領主)の支配する小国家,シニョリーア制に変わっていった。12世紀ころからミラノは周辺の地域をその支配下に収めて,ロンバルディア最大の都市国家になっていたが,13世紀末にはビスコンティ家による支配が決定的となり,その支配する領域は現在のロンバルディアよりも広く,アスティ,ジェノバ,およびトスカナ地方の一部にまで及んだ。15世紀初め,このミラノ公国の支配する範囲は,東部においてベネチア共和国によってかなり奪われた。1450年,スフォルツァ家がシニョーレになってから後も,消長はあるが,クレモナなど現在のロンバルディア州の東部のかなりの部分が,ベネチア共和国の支配下にはいった。1535年に始まるスペインのハプスブルク家の支配下で,ミラノ公国の領域はさらに縮小した。スペイン継承戦争(1701-13)の結果,ミラノ公国はオーストリア領となり,オーストリア継承戦争後(1748年。アーヘンの和約),ティチノ川以西が,サボイア家の支配下にはいることによって,ロンバルディアの現在の西の境界線が確定した。オーストリア治下において,ロンバルディア地方とベネチア共和国領との境界は,現在のものとかなり違っていたが,ナポレオン戦争後,1815年オーストリアの支配のもとにロンバルド・ベネト王国がつくられ,ベネチア政庁とミラノ政庁との境界が,ほぼミンチオ川に沿って設けられた。これが現在のロンバルディア州とベネト州との境界線として,ほぼ継承されている。
19世紀前半のオーストリア支配のもとで,ミラノ,コモ,ベルガモなどでは,繊維産業をはじめとする工業が発達しはじめていたし,ミラノは豊かな農業地帯の中心地として,また水陸交通の要所として,ロンバルディアの経済的中心としても大きな発展を遂げた。1830年代には,ベネチア~ミラノ間の鉄道建設も着手された。
ミラノ公国の経済的繁栄の一つの基礎は,扇状地の土地改良を進めて農業生産力を大いに発展させたことにあった。18世紀にはピエモンテとともに,イタリアでは例外的に穀物および牧草の栽培と家畜の飼育,とくに酪農とが結びついた近代的混合農業が成立した。またミラノからパビア,クレモナにかけての地帯は,扇状地の末端の豊かな湧水に恵まれ,夏の高温と相まって水稲栽培が混合農業の中に取り入れられて発達した。
1890年代になって本格化したイタリアの産業革命は,ミラノをはじめとするロンバルディア諸都市に農業部門からの剰余が集中し,さらに繊維産業などの工業と商業・金融活動とに由来する富の蓄積があったことにおおいに負っている。イタリア近代工業の発展にとっては,トリノを中心とするピエモンテおよびジェノバを中心とするリグリアが果たした役割も無視できないが,すでに金融中心として重きをなしていたミラノは,アルプス山地からの水力電気と交通の結節点としての条件を利用して,イタリアの産業革命において最も重要な役割を果たした。このようにしてロンバルディアは,農業においても工業においても,イタリアにおいて最も先進的な地域となった。地域別にみると,ミラノ,ブレシアなどアルプス山麓の都市およびその周辺部が工業地帯をなし,南部は豊かな農業地帯となっている。しかし南部でも,クレモナでの楽器生産のような伝統的産業もあるし,マントバ周辺には石油精製や石油化学工業も発展してきている。またミラノがイタリアの高速道路網の中心になっていることもあって,州内の高速道路の延長キロ数では,ロンバルディアがイタリア諸州の中で最も大きい。
イタリアの政治的中心がローマにあるため,経済において公共部門の比重が大きくなった第2次大戦後には,重要な経済的意思決定のかなりの部分が,ローマでなされるようになったことは確かである。しかし民間部門に関しては,経済中枢としてのミラノの地位はますます増大してきている。また1950年代後半から,南部開発のために主として国家資本により,南部に大規模な工業が多く建設されたことも事実である。しかし,そのような南部における公共投資および工業化の波及効果が,ロンバルディアを中心とする北部によって吸収され,その経済的繁栄の原因となっていることに注目しなければならない。
ロンバルディア諸都市は,ローマやフィレンツェのようには豊富な文化遺産によってたくさんの観光客を引きつけるということはないが,アルプス山地やコモ湖,ガルダ湖をはじめとする氷河湖など景勝の地が多く,観光業もロンバルディアの重要な産業になっている。
ロンバルディアにはミラノ方言,コモ方言,ベルガモ方言などいくつかの方言があるが,大きく分けるとアッダ川を境にして東部ロンバルディア方言と西部ロンバルディア方言とがある。とくに西部方言はプロバンス語に近く,標準イタリア語とは非常に異なっている。大都市では他地域からの流入人口の比重が高くなり,純粋の方言はあまり聞かれなくなっているが,農村部では方言が広く用いられている。
ロンバルディア全体にミラノの文化的影響力が強いことは,たとえばミラノの新聞の普及状態などをみればわかるが,ベルガモ,ブレシア,コモ,クレモナ,マントバ,パビア,ソンドリオ,バレーゼなどの県都は,それぞれ固有の長い歴史と文化とをもっている。大学はミラノに四つ,パビアおよびベルガモに一つずつあるが,このうち1361年創設のパビア大学はイタリア最古の大学の一つである。
執筆者:竹内 啓一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イタリア北西部の州。面積2万3850平方キロメートル、人口892万2463(2001国勢調査速報値)。ミラノ、ブレッシア、ベルガモ、バレーゼ、コモ、パビーア、マントバ、クレモナ、ソンドリオ、レッコ、ローディの11県からなり、州都はミラノ。州の人口はイタリア各州のうち第1位である。ロンバルディア北部は山がちで、レポンティーネ・アルプス(テッシン・アルプス)をはじめ、レーティック・アルプス、バルテッリーナの谷、オロビエ・アルプス、マッジョーレ湖・コモ湖・ガルダ湖を有するプレアルプスなどにより変化に富んだ地形をもつ。それに対して南部ではロンバルディア平原が広がり、ポー川の支流、運河、湧水(ゆうすい)を利用した灌漑(かんがい)農業が行われ、さらにはイタリア経済の心臓部をなすミラノを中心とする大工業地帯が存在する。アルプスの豊富な水から得られる電力や第二次世界大戦後に発見されたメタンガスを基盤として、製鉄、機械、化学、繊維、精油、製紙など多方面の工業活動がみられる。農畜産物では、トウモロコシ、米、牧草、食肉、牛乳などが重要である。
[堺 憲一]
紀元前5~前4世紀にガリア人が来住し、ミラノやブレッシアなどを建設。前222年のミラノ陥落以後、徐々にローマの支配権が浸透していき、皇帝アウグストゥスの時代にローマ化が完成した。紀元後3世紀、ローマの四分統治の発足に伴い、ミラノが皇帝マクシミアヌスの統治する西部帝国の首都となる。569~774年にはパビーアを首都としてランゴバルド王国が栄え、これにちなんでロンバルディアという名称が生まれた。11~13世紀には中世都市が発達する。スプルーガ(シュプリューゲン)峠などローマ時代からのアルプス越え旧ルートに加えて、シンプロン峠やサン・ゴタルド峠の新ルートが開かれ、地中海とヨーロッパを結ぶ通商路として繁栄した。また、12世紀以降、平野部では干拓や運河の建設が行われるようになった。13世紀末から14世紀前半にかけてビスコンティ家の支配が強化され、1395年ミラノ公国が発足する。その後スペインによる統治(1535~1713)を経て、ナポレオン時代を除けば1859年までオーストリアの影響下に置かれた。18世紀後半以降は平野部での酪農・稲作と丘陵部での養蚕を基礎にして、17世紀以来の経済的停滞を克服した。19世紀末~20世紀初頭には水力発電、イタリア商業銀行(1894創設)などを土台にして、イタリア産業革命の主舞台となった。
[堺 憲一]
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北イタリア,アルプス山麓の地方名。その名は6~8世紀にこの地を支配したランゴバルド王国に由来する。中世にはミラノ,パヴィア,クレモーナ,マントヴァなど自治都市が栄えたが,中世末にその大部分がミラノ公国領とされた。イタリア戦争の結果カール5世が領有し,フェリペ2世に譲られてスペインの支配下に入った。17世紀には一時衰退したが,18世紀にスペイン継承戦争によりオーストリア領となると啓蒙専制君主の改革により繁栄を取り戻した。ナポレオン期にはイタリア王国に統合されるが,王政復古後ロンバルド‐ヴェネト王国としてオーストリアに属した。1859年ヴィラフランカの講和にもとづきサルデーニャ王国に併合された。
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