改訂新版 世界大百科事典 「イエス伝」の意味・わかりやすい解説
イエス伝 (イエスでん)
新約聖書の福音書は,18世紀の西欧啓蒙主義以前のキリスト教会においては単純にイエスの伝記として読まれ,とくにその記述の史実性が問われることは少なかった。しかし啓蒙主義の近代的歴史意識に基づく学問的歴史研究の方法は,ドイツのプロテスタント神学を中心に,伝統的な教会教義に対する批判と学問的・批判的イエス伝研究を呼び起こした。その端緒とされるのがライマールスHermann Samuel Reimarus(1694-1768)の《イエスと彼の弟子たちの目的について》(1778)である。ここに断片的ながら指摘された重要な問題点が,以後20世紀前葉までのイエス伝研究--合理主義と自由主義のイエス伝に大別される--において繰り返し論じられる。合理主義のイエス伝研究(H.E.G. パウルスやシュライエルマハーなど)は,イエスの奇跡と復活を超自然的事件として説明する立場に対抗して,可能な限り合理的に自然的現象へ還元する説明を企図した(例えば,イエスの復活は仮死状態からの蘇生とされる)。奇跡説明をめぐる論争に終止符を打ったのがD.F.シュトラウスの《イエス伝》(1835-36)である。シュトラウスはヘーゲル哲学から出発して福音書批判へと向かい,合理的説明に服し切らない記事を,旧約聖書と後期ユダヤ教のメシア的終末理念が原始キリスト教団により二次的にイエスの上に適用されて形成された〈伝説=神話〉であるとして説明した。この考え方はさらにB.バウアーの福音書批判(1840-42)へ継続された。
福音書批判は同時に,イエス伝研究の史料としてどの福音書が優先されるべきかという文献学的問題を呼び起こし,実にさまざまな提案がなされた。やがて《ヨハネによる福音書》よりは他の三つのいわゆる〈共観福音書〉を,後者の中では《マルコによる福音書》を最古のものとして優先する立場が有力となり,自由主義神学の代表者の一人ホルツマンHeinrich Julius Holtzmann(1832-1910)に至って,いわゆる〈二資料仮説〉が確立された。自由主義神学のイエス伝は《マルコによる福音書》を基本枠として,共観福音書が伝える諸事件とイエスの言葉を,ときには史的空想と心理主義的な内面描写をも用いて伝記的な前後関係へ整理し直し,〈メシア〉たるイエスの自己意識の内的発展を一種の歴史読物として再構成して見せる。フランスのカトリックの背景から現れたルナンの《イエス伝》(1863)がその代表的なものである。そこでイエスは愛の倫理の説教者として現れ,〈神の国〉も人類の倫理的完成の目標として歴史内在的・精神的に解釈される。自由主義のイエス伝はやがて自由主義神学そのものの内から現れた研究により,二つの側面から根本的に批判された。その一つは,ワイスJohannes Weiss(1863-1914)の《神の国についてのイエスの説教》(1892),およびワイスをより徹底させたA.シュワイツァーの〈徹底的終末論〉(《イエス伝研究史》1906)によって,イエスの〈神の国〉の説教の持つ終末論的超越性が同時代のユダヤ教黙示文学の歴史理解と終末待望の背景から明らかにされたことである。さらには,《マルコによる福音書》自体が全体として一定の神学的理念=〈メシアの秘密〉によって貫かれており,イエス伝の史的再構成のための基礎史料とはなりえないことが,ウレーデWilliam Wrede(1859-1906)の画期的著作《福音書におけるメシアの秘密》(1901)によって明らかにされた。
その後1920年代に確立された様式史的研究方法は,福音書が素材としている古くからの口頭伝承の大部分が元来イエスの史実を伝えるものではなく,彼の死後成立した原始教団の復活信仰と分かちがたく結合していることを示した。この研究方法の創始者であるディベリウスMartin Debelius(1883-1947)とブルトマンはそれぞれ1926年と39年に《イエス》という著作を公にしたが,程度の差こそあれ,従来のイエス伝のようなイエスの生涯の伝記的再構成は方法的に不可能であるとして放棄し,イエスの言葉(思想)の叙述を主目的としている。また50年代に確立され現在の福音書研究の主流となっている編集史的研究方法も,ウレーデの研究を発展させつつ,福音書の著者が近代的意味の歴史記述者ではなく,それぞれに固有な神学的主張によって導かれていることを明らかにしている。したがって,史学的に厳密な方法に基づくイエス伝の叙述はもはや不可能とされ,これはとくにドイツを中心とする新約聖書学の共通の認識であると言える。もちろん,様式史と編集史的研究以後,現代の信仰にとって〈史的イエス〉の有する意義を再確認しようとする優れて聖書神学的な意図から,単にイエスの言葉を超えて彼のふるまいも活発に問われ,ボルンカムGünther Bornkamm(1905- )の《ナザレのイエス》(1956)はその一つの結実であるが,そこでもやはりイエスの生涯の伝記的再構成は断念されている。そのほか,イエスは彼自身の宣教活動とともに〈神の国〉が実現しつつあるものと考えていた(〈実現しつつある終末論〉)とする見解や,また自分をいかなる〈メシア的称号〉によっても表示することはなかったが,その実際の活動そのものの中に伝統的なメシア教理では把握不可能な彼の人格の秘密が示されていた,とする見解が目下のところ有力である。
→イエス・キリスト →福音書
執筆者:大貫 隆
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