改訂新版 世界大百科事典 「イギリス領東アフリカ」の意味・わかりやすい解説
イギリス領東アフリカ (イギリスりょうひがしアフリカ)
British East Africa
植民地時代のケニア,ウガンダ,タンガニーカ,ザンジバルの4地域の総称。場合によってはインド洋上のセーシェル諸島も含める。19世紀中葉,イギリス王立地理学協会に支援された探検家やキリスト教伝道師らにより,東アフリカ内陸部の様子が西欧に知られるようになった。イギリスは奴隷貿易の禁止と自国の工業製品の販路拡大のため,沿岸部を支配していたザンジバルのスルタンを保護のもとにおいて内陸部への通商路を確保しようとした。ドイツも同地域へ進出を始め,1884-85年のベルリン会議の後,86年および90年のイギリス・ドイツ協定で相互の勢力範囲を確定した。当初は双方とも特許会社(帝国イギリス東アフリカ会社とドイツ東アフリカ会社)に統治をまかせたが,原住民の抵抗運動が頻発し,90年代には植民地政府による統治に移行した。ドイツ領東アフリカは第1次世界大戦後タンガニーカとなり,1920年より国際連盟の委任統治領としてイギリス統治下に入った。ケニア植民地ではウガンダ保護領に達する鉄道完成以後,高原地域に白人入植が進み,ホワイト・ハイランドが形成された。また東アフリカ全体にインド人移民も多くなった。22年に共通通貨として東アフリカ・シリング貨を導入し,ケニア,ウガンダ,タンガニーカの3地域は対外共通関税と相互間の物資の移動を自由にする制度を成立させ,26年より定期的に総督会議を開催して政策の調整を行った。第2次大戦中は3地域の共同機構として鉄道・港湾,郵便・通信,東アフリカ航空の3機構と東アフリカ控訴裁判所が設立され,戦後の48年にはこれらの機構を統轄する東アフリカ高等弁務府が発足した。高等弁務府は関税,所得税の徴収事務を行い,地域統合を強める推進力となったが,50年代より高揚期を迎えたアフリカ民族主義運動は各地域の独立を目ざした。61年のタンガニーカ,62年のウガンダ,63年のザンジバル,ケニアの独立達成,64年のタンガニーカとザンジバルの合邦により,共同機構の役割も変化し,67年には東アフリカ共同体として改組されたが,77年にはこれも解消した。
執筆者:吉田 昌夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報