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フランドル楽派の作曲家。1485年ころからフィレンツェのメディチ家に仕え,歌手として活躍するほか,ロレンツォ・デ・メディチの子どもたちに音楽を教えた。メディチ家がフィレンツェから追放(1494)されてからは,マクシミリアン1世の宮廷作曲家としてウィーンやアウクスブルクに滞在。しかし,皇帝の理解によって各地を旅行し,1512年メディチ家復興と同時にフィレンツェに戻り,同地で没した。各国の音楽様式を学んだイザークは,それらをミサ,モテット,世俗曲(シャンソンやフロットラ)などに反映させた。代表作は,コンスタンツ大聖堂参事会から依頼を受け,一年の主要な祝日のミサ固有式文を,主として4声の模倣対位法で作曲した《コラリス・コンスタンティヌス》である。また,各国語による世俗的な作品のうちの《インスブルックよ,さようなら》は,美しい旋律で後世プロテスタントのコラールに転用され,バッハがそれを《マタイ受難曲》等で用いていることで有名である。
執筆者:寺本 まり子
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フランドル楽派の作曲家。1485年から94年まで、メディチ家の保護のもとにフィレンツェの大聖堂および付属洗礼堂でオルガン奏者を務め、97年以後は皇帝マクシミリアン1世に仕え、ウィーン、インスブルックなどで活躍した。1515年にふたたびフィレンツェに行き、同地で没した。盛期フランドル楽派中とくに重要な作曲家で、フランドルの精緻(せいち)な対位法書法を基礎に、イタリア的旋律法、ドイツ風の情感豊かな性格を巧みに融合した音楽を書いた。ミサ曲、モテット、シャンソン、ドイツ多声歌曲、フロットラなど多数の作品を残したが、なかでもミサ固有文を多声化した曲集『コラリス・コンスタンティヌス』はとくに重要である。
[今谷和徳]
…フランスのシャンソンには粋で洒脱な趣があり,イタリアのマドリガーレ(マドリガル)は文学上のマニエリスムと手を取りあって牧歌的題材の中に様式的洗練を示す。ドイツの多声リートは,野の花のような素朴さの中にロマンティックな憧れを秘め,イザークの4声の歌曲《インスブルックよ,さようなら》などの佳曲を生んだ。これらの多声歌曲と並んで,手近な楽器リュートを伴奏とする歌曲も行われ,イギリスのダウランドによる《流れよ,わが涙》(《涙のパバーヌ》の名でも知られる)のように一世を風靡する曲も現れた。…
…また,イタリアの清澄な和声法,ポリフォニーとホモフォニーの対比効果も重視された。この世代の代表的な作曲家には,イタリアで長く活躍し,楽曲構成法に〈完全な技芸〉を示したジョスカン・デ・プレをはじめとして,イザーク,ピエール・ド・ラ・リューPierre de la Rue(1460ころ‐1518)らがいる。16世紀中ごろまでの第3期はジョスカンの成果の踏襲といえるが,声部数はしだいに増加し,複合唱手法が好まれるようになった。…
※「イザーク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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