日本大百科全書(ニッポニカ) 「インカ美術」の意味・わかりやすい解説
インカ美術
いんかびじゅつ
南アメリカ中央のアンデス地方に、15世紀から16世紀初めにかけて栄えたインカ帝国が開花させたインカ文明の美術。ただしこのインカ美術は、2000年にも及ぶ古代アンデスの先行文化の帰結ともいえるので、一般にインカを最後とする古代アンデス美術を、インカ美術とよんでいる。
[深作光貞]
インカ文明以前の美術
アンデス高地のあちこちの岩や洞穴に、氷河時代後期のものと思われる動物や呪術(じゅじゅつ)文様の岩絵がある。紀元前1500年ごろになると、中部高地にチャビン文化が生まれた。日本調査団の手で発掘したコトシュ神殿、外壁に宗教的石彫を施したチャビン・デ・ワンタル大神殿、人物や動物を写実的にかたどり黒色や褐色に磨き上げた有頸壺(ゆうけいつぼ)、鐙(あぶみ)形壺などの土器が、代表的なものである。前500年ごろから、いわゆる古典期に入り、各地に地方文化が発達する。北海岸のモティーカでは人頭や動物や神話上の人物をかたどった土器が有名で、土器の表面に描かれた生活や戦闘の絵も興味深い。南部のパラカスでは、丸い胴部の上に2本の注口を立てて橋のような把手(とって)で結んだ橋付き注口壺、ナスカでは焼成前に色つけした彩色土器が特徴をなす。また、この両文化の織物は、木綿や獣毛を材料として、刺しゅう、縫い取り織、綴織(つづれおり)などの高級技術を駆使し、色彩も赤、紫、青などの絢爛(けんらん)たるものである。ボリビア高地のティアワナコ遺跡には「太陽の門」とよばれる巨大な一枚石の石彫の門がある。このティアワナコ文化が新興ワリ帝国によりワリ・ティアワナコ様式を生み、中央アンデスから海岸地方に広まり、いわゆる後古典期に入る。黒色土器と大仮面やナイフなどの黄金細工に特色をみせたチムー文化、白地黒彩土器と綴織や絞りからレース織に至る染織にみごとな成果をあげたチャンカイ文化、細かい文様の織物と彩色土器を残したチンチャ文化とイカ文化などが栄えた。
[深作光貞]
インカ文明の美術
ペルー南部高地の小部族連合組織として誕生したインカ小帝国は、15世紀なかば、急速にアンデス全域を統一する大帝国になったが、1532年のスペイン人の征服により、その翌年滅ぼされた。このように短命であったため、インカ独自の美術は円熟する余裕がなかったといえよう。しかし強力な政治権力で、人海戦術による巨石建造物を次々につくり、首都クスコ、マチュ・ピチュ、サクサワマン、オリャンタイタンボなどにいまも遺跡が残っている。磨いた角石を接着剤なしにすきまなく石壁に積み上げる技術は驚くべきものだが、アーチ造りの技術はなく、宮殿や神殿も渡した梁(はり)の上に藁(わら)の屋根をつくっていた。他の文明との交流をもたない孤立文化であったため、発達した面と遅れたままの面を兼ね備えていたわけである。土器、織物、金細工などは、伝統ある各地でつくらせ中央に集めていたが、征服にきたスペイン人に略奪され、幾何学文様の彩文尖底(せんてい)壺をはじめとする土器などを除くと、往時の実体を知るのは困難である。
[深作光貞]