南アメリカ大陸北西部の国。正式名称はエクアドル共和国República del Ecuador。国名はスペイン語で「赤道」を意味し、国土の北部を赤道が通っている。豊かな農産物と鉱産資源に恵まれながらも、南アメリカで国土開発がもっとも遅れた国の一つである。面積28万3560平方キロメートル、人口1215万6608(2001年センサス)、1336万3600(2005年推定)、人口密度は1平方キロメートル当り47人(2005年推定)。首都はキト。
独立運動は1809年および1810年の反乱に始まるが、スペインの支配を完全に脱したのは1822年である。それに伴い、エクアドルは大コロンビア共和国に編入されたが、1830年には分離独立し、初代大統領にはホセ・フロレスJuan Jose Flores(1800―1864)が就任した。独立後は、商工業主中心のグアヤキル市と半封建地主を中心とするキト市との地域的対立、それを基盤とする自由・保守両党の紛争および内乱、ペルー、コロンビアとの国境紛争などが続き、独立直後のフロレス、19世紀後半のモレノGabriel Garcia Moreno(1821―1875)、20世紀初頭のアルファロEloy Alfaro Delgado(1842―1912)の三大独裁時代における若干の発展を除けば、1940年代後半に至るまで近代国家の発展は阻まれてきた。
1944年5月、左派の民主連盟による反乱でアロヨ・デル・リオCarlos Alberto Arroyo del Rio(1893―1969)独裁政権が倒れ、同年7月の大統領選挙では同連盟の推すベラスコ・イバラが当選した。彼は1960年選挙にも土地改革などの進歩的政策を掲げて当選したが、就任後は独裁的傾向を強め、増税、平価切下げ、反政府運動弾圧などを進めたため、1961年11月、学生、軍の反乱が起こり、亡命を余儀なくされた。副大統領から昇格したフリオ・アロセメナCarlos Julio Arosemena Monroy(1919―2004)大統領は累進所得税、農地改革など進歩的政策を実行し、外交的には対米協調を基本としながらも自主路線を目ざした。しかし国内右翼勢力とアメリカの圧力に屈して、1962年3月対キューバ断交に踏み切ると、国内の政府批判が高まった。そうしたなかで1963年7月、容共的傾向を不満とする軍部がクーデターを断行し、憲法の停止、議会の解散、共産党の非合法化を行うとともに、ラモン・カストロ・ヒホンRamon Castro Jijon(1915―1984)大佐を首班とする軍部政治委員会を組織した。同軍事政権は経済社会発展十か年計画などの経済開発政策を立案、推進したが、軍部の独裁に対する政治家や学生の反感に加えて、経済情勢が悪化したため、民政移行を決意、1966年3月、イエロビ・インダブロClemente Yerovi Indaburu(1904―1981)上院議員に政権を委譲した。
初代大統領になるべきスクレ将軍が暗殺されたため,ベネズエラの軍人フロレスJuan José Flores(在任1830-35,1839-45)が大統領に就任し,軍事独裁を行った。彼は教会を弾圧しイエズス会士の追放を進めた。1861年に始まる15年間は,その反動というべき宗教立国を政治原理とするガルシア・モレノ大統領が政権を握った。彼はイエズス会士を呼び戻し,軍国主義者に対抗して教会と地主の支持を求めた。この期間に農業生産は増大し,鉄道や学校も数多く建設されたが,宗教色の濃い独裁政治は国内に盛り上がってきた自由主義と衝突するところとなった。海岸地方ではカカオの輸出で活気づき,銀行制度が発達した。海外との経済関係を背景にアルファロEloy Alfaro(在任1895-1901,1906-11)がグアヤキル自由党を強化し,彼の指揮する人民軍が山地の政府軍を倒し,1895年大統領に選ばれた。アルファロは政教分離と教会財産の没収を断行したが,国家統一の決め手となる土地改革は等閑視された。アルファロに続く大統領プラサLeonidas Plaza(在任1901-05,1912-16)も海岸地方の経済を優先させる政策をとった。ここにカカオ輸出のためのグアヤキル商業・農業銀行が政治を牛耳る時代が出現して,山地と海岸地方の対立意識をいっそう強めた。