イギリスの政治家。オックスフォード大学在学中に第一次世界大戦に従軍し、卒業後1923年に保守党下院議員となった。1934年に国璽尚書(こくじしょうしょ)に就任、国際連盟担当相を経て、1935年外相の座についた。外相として、スペイン内戦に際しての不干渉政策の推進などを行ったが、対イタリア政策をめぐってチェンバレン首相と対立し、1938年2月に辞任、宥和(ゆうわ)政策批判派の旗頭となった。第二次世界大戦開始によって政府に復帰し、自治領相、陸相、外相を歴任した。とりわけ4年8か月に及ぶ外相時代には、イギリスの戦時外交に強力なリーダーシップを発揮した。戦後、1951年からまたも外相を務め、ジュネーブ会議(1954)の開催などで大きな役割を果たした。1955年4月チャーチルの後を継いで首相に就任。翌1956年エジプト政府によるスエズ運河国有化に直面し、フランス、イスラエルと謀ってエジプト攻撃に踏み切ったが、国内外からの激しい批判を浴び、健康が悪化するなかで、1957年1月辞任に追い込まれた。それ以後、政治の表舞台から退き、現代史の貴重な史料となる回顧録の執筆などで余生を送った。
[木畑洋一]
『町野武他訳『イーデン回顧録』全4巻(1960~1964・みすず書房)』
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イギリスの保守党政治家。1938年ネビル・チェンバレン首相の対伊宥和政策に抗議して外相を辞したが,次のチャーチル首相の下で再び外相(1940-45,51-55)として第2次大戦時・戦後の外交を指導した。54年のジュネーブ会議におけるインドシナ休戦の実現や,西ドイツの再軍備を認めたパリ協定の締結など,イギリス外交の自主性回復に貢献した。55年チャーチル引退の後首相に就任,57年スエズ出兵事件で引責辞職した。
執筆者:池田 清
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1897~1977
イギリスの保守党政治家。第一次世界大戦に歩兵士官として従軍,1923年議会入りした。35年外相となり,ドイツ,イタリアの侵略政策に対抗したが,38年首相チェンバレン(ネヴィル)の対独宥和政策に反対して辞職,40年チャーチル戦時内閣で再び外相となった。51年三たび外相となり,西ヨーロッパ防衛体制の確立に指導的役割を演じた。55年首相となったが,スエズ出兵問題に失敗,57年辞職した。61年伯爵に叙された。
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…これがイギリスとフランスがソ連接近に消極的であった一つの理由となる。しかしながら〈宥和政策〉は構造的な背景をもっており,単に1937年5月イギリス首相に就任したA.N.チェンバレンや38年2月反宥和主義者のイーデン辞職ののち外相となったハリファクスなどのパーソナリティにのみ帰すことはできない。 1936年夏ヒトラーは反共宣伝を激化し,イタリアとの和解を達成し,イギリスともリッベントロープを駐英大使に任命して接近をはかり,共産主義の〈防波堤〉であることを強調して東方進出の承認を得ようとしていた。…
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