プラハ大学(読み)プラハだいがく

改訂新版 世界大百科事典 「プラハ大学」の意味・わかりやすい解説

プラハ大学 (プラハだいがく)

チェコスロバキアの首都プラハにある大学。正式名称カレル大学Universita Karolova Praha。中部ヨーロッパ最古の大学として神聖ローマ皇帝ボヘミア王であったカール4世が1348年に創設した。当時の大学の典型的な学部構成である神学法学医学教養の4学部制をとっていた。学生や教師はナティオnatioとよばれる四つの国民団組織(ボヘミア,バイエルン,ポーランド,ザクセン)に属していた。1409年大学におけるチェコ人の優位を認める国王の勅令が出るに及んで,チェコ人とドイツ人との対立が激化し,ドイツ人の教師・学生はライプチヒへ退去した。ドイツ人の退去やフス戦争は大学を衰退させた。1556年カニシウスがイエズス会派のコレギウム(神学校)をこの町に開設し,一時期イエズス会が大学の運営権をも握ったが,1654年にコレギウムと大学は統合された。プラハは,歴史的にハプスブルク家の支配下におかれていたが,19世紀後半,チェコ人の民族意識の高揚とともに,1882年大学はチェコ大学とドイツ大学とに分裂した。第2次世界大戦中はチェコ大学は閉鎖されたが,戦後再開され今日にいたっている。現在,理学,哲学,法学,五つの医学部体育学など全部で16の学部をもつ。1996年の教師数約3100,学生数約2万9500。
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大学事典 「プラハ大学」の解説

プラハ大学[チェコ]
プラハだいがく

中部ヨーロッパで最も古い歴史をもつ国立大学。1348年に神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王カレル1世)によってボヘミア(現在のチェコ)の首都プラハに創設された。創設者の名前をとってプラハ・カレル大学(チェコ)と呼ばれる。神聖ローマ帝国の最初の大学であるパリ大学をモデルにしたといわれている。1348年にウィクリフ神学をめぐり学内で民族組織が対立した。1618年からの三十年戦争期にイエズス会が主導権を握り,戦争末期に教授・学生軍が結成されて参戦し,スウェーデン軍を撃退した。1653年にカール・フェルドナンド大学(チェコ)に改称された。第1次世界大戦後の1918年に独立してプラハ大学となった。戦後は社会主義体制下でソ連型に改編されたが,「自由な大学」といった理念は部分的に継承されてきたともいえよう。1980年代以後,少しずつチェコスロヴァキアの民主化は進展したが,それには大学,学生が主要な役割を果たした。1989年のビロード革命に際し大学と学生が積極的に参加し,体制転換に寄与した。著名な出身者に宗教改革者のヤン・フス,独立運動の指導者で第2次大戦後大統領を務めたエドヴァルド・ベネシュ,作家のフランツ・カフカ,ミラン・クンデラ,カレル・チャペックなどがいる。2017年現在17学部,学生数約5万人。
著者: 加藤一夫

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百科事典マイペディア 「プラハ大学」の意味・わかりやすい解説

プラハ大学【プラハだいがく】

チェコの首都プラハにある大学。1348年カール4世が設立。正称はUniversita Karlova(カレル大学)。パリ大学に範をとって組織され,14世紀末に隆盛。19世紀後半,ハプスブルク家の支配に抗するチェコ人の民族運動の高揚を背景に,1882年チェコ大学とドイツ大学に分離,1945年後者は廃止。1995年現在,理学,哲学,法学,五つの医学部など16の学部をもつ。教師数約3100,学生数約2万9500。
→関連項目ライプチヒ大学

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プラハ大学」の意味・わかりやすい解説

プラハ大学
プラハだいがく
Univerzita Karlova

チェコの首都プラハにある大学。 1348年パリ大学をモデルにしてドイツの最初の大学として神聖ローマ皇帝カルル4世により設立された。設立当初は各国から参集した教師の組合による自治的運営が認められ,裁判権も付与されており,神学科,法学科,医学科とそれらの準備的課程である文学科の4学科から成っていた。その後学科内の教師の団体が自治権,裁判権を行使した。 1409年フス派の反乱により大学の行政権がボヘミアに移り,ドイツ人教師,学生の一部がライプチヒに移動してライプチヒ大学創立のきっかけをつくった。 1882年ドイツ系大学とチェコ系大学が完全に分離した。現在は法学,医学,哲学,理学,数学・物理学,教育,社会科学,薬学,神学などの学部から成り,医学部はプラハ,ハラデスク,プルゼン (ピルゼン) に分散している。教員数約 3100名,学生数約2万 9500名 (1997) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「プラハ大学」の意味・わかりやすい解説

プラハ大学
ぷらはだいがく

正称としてはカレル大学Univerzita Karlovaである。チェコ共和国の首都プラハにある中世以来の伝統ある大学。1348年ベーメン(ボヘミア)王カレル1世(カール4世)によりパリ大学をモデルに創設された。宗教改革者フスも教壇に立ち、大学をチェコ民族の機関とすべく努力した。その結果、チェコ民族とドイツ民族の対立が激化し、大学は一時的に衰退する。17世紀には大学がイエズス会の支配下に入ったが、1773年ふたたびチェコ民族の機関となり、活力を取り戻した。1882年チェコ大学とドイツ大学に分離し、1918年チェコ大学は創設者の名にちなみカレル大学とよばれた。1939年から第二次世界大戦中は閉鎖されていた。ナチスの支配から解放された1945年ドイツ大学は廃止され、カレル大学はふたたびチェコ民族の大学として復活した。学部は、数学・物理、理学、法学、ジャーナリズム、哲学・文学、医学、薬学、教育学、神学、体育・スポーツ学、社会科学などがある。1995年現在、教員数約3000人、学生数約3万人。

[馬越 徹]

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旺文社世界史事典 三訂版 「プラハ大学」の解説

プラハ大学
プラハだいがく
Praha

チェコの首都プラハにある大学
ベーメン王で神聖ローマ皇帝でもあったカレル1世(神聖ローマ皇帝としてはカール4世)が1348年に創設。神学・法学・医学・教養の4学部を備え,神聖ローマ帝国内最古の大学。正式にはカレル大学という。

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世界大百科事典(旧版)内のプラハ大学の言及

【大学】より

…一方,大学の発展に促されて(後に〈大学〉は,〈教皇権〉〈皇帝権〉と並称された),13世紀以降,とくに14~15世紀に,都市や皇帝・国王も,その威信と官僚養成をめざして,大学の創設に積極的に加担した。神聖ローマ皇帝によるナポリ大学(1324)の創設を端緒として,スペインのサラマンカ大学(1330ころ),帝国領内のプラハ大学(カレル大学。1347),ウィーン大学(1365),クラクフのヤギエウォ大学(1364)などの大学が次々と創設された(〈創られた大学〉と呼ばれる)。…

※「プラハ大学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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