ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エチオピア史」の意味・わかりやすい解説
エチオピア史
エチオピアし
その後,大規模な戦闘を経てティグレ高原を拠点とするアクスムが統一し,スーダンや紅海沿岸を通じた交易で栄えた。アクスムに残る文字資料や彫刻,建築が南アラビアの影響を受けていることから,アクスム建国以前に南アラビアからの移民がエチオピア北部に居住していたという説が有力だったが,近年否定されつつある。しかし,古代におけるエチオピアとアラビア半島の文化交流は,エチオピア王家の祖先はソロモン王とシバの女王との間に生まれたメネリク1世であるとの神話を生み出した。アクスムは4世紀頃にキリスト教国となったが,7世紀後半からイスラム教徒に包囲され,高原に孤立して外界との接触は絶たれた。
15世紀末になってポルトガルの探検者が来訪し,1520年ポルトガル軍の援助でイスラム軍を撃退したが,離合集散を繰り返した。19世紀にメネリク2世(在位 1889~1913)が国内を統一,アジスアベバを首都とした。すでにエリトリアを植民地とし(1870~85),ソマリアを保護領(1889)としていたイタリアが,アビシニア王国を侵略しようとしてメネリク2世とウチアリ条約を結び,1896年同条約によりアビシニア保護領化を武力で実現しようと攻撃してきたが,アドワの戦いでアビシニアが勝ち,両国間に講和が成立した。メネリク2世の死後,王位継承争いと地方的利害のからまった国内紛争が起こったが,メネリクの娘ザウディツが 1916年に女王となり,国内統一が回復した。1930年摂政だったラス・テフェリはハイレ・セラシエを称し,近代的なエチオピア帝国の確立に着手し始めたが,1935年10月イタリア軍の侵略が始まり,翌 1936年5月アジスアベバも占領された。イギリスに亡命したハイレ・セラシエは,1941年からイギリス軍とともに祖国解放の進撃を始め,同年 5月にイタリア軍敗退後の首都に帰り,独立を回復した。エリトリア併合(1952),国内近代化,クーデター未遂事件,ソマリアとの国境紛争,エリトリア分離問題などの困難な問題をかかえていたが,1974年政治改革を要求していた軍の一部が反乱を起こし(→エチオピア革命),同年 9月ハイレ・セラシエを退位させ,帝制は廃止された。同年 12月社会主義化路線を宣言。1977年2月クーデターが起こり,重要施設の国有化を開始,旧ソビエト連邦,キューバとの関係を深めた。1975年以降,エリトリアの独立を要求するエリトリア解放戦線との戦争が激化し,1977年にはオガデン地方の帰属をめぐってソマリアと全面戦争となったが,1978年これに勝利した。1988年にはソマリアと休戦協定を締結。1991年5月には革命以来のメンギスツ・ハイレ・マリアム政権が崩壊し,新政府はエリトリアに対し,柔和政策をとるなど政策を一変させた。
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