日本大百科全書(ニッポニカ) 「エーベルト」の意味・わかりやすい解説
エーベルト(Friedrich Ebert)
えーべると
Friedrich Ebert
(1871―1925)
ワイマール共和国の初代大統領(在任1919~1925)。仕立屋の息子としてハイデルベルクに生まれ、馬具職人の修業を積み、1889年、社会民主党に入党、実務家としての手腕を買われて、1905年党執行部書記、1912年以降帝国議会議員となり、1913年にはベーベルの死後、ハーゼと並んで党議長に選ばれた。第一次世界大戦では政府、軍部に妥協する「城内平和」Burgfriedeを積極的に推進、1918年11月のドイツ革命ではハーゼらと人民代表評議会を組織したが、グレーナーら軍部の勢力と結んで革命派を退け、1919年国民議会によって大統領に選ばれ、内外の困難な事態の処理にあたった。しかし右翼の中傷による裁判事件の疲労も加わり、1925年2月28日、任期満了の直前、死亡した。
[松 俊夫]
エーベルト(Karl Joseph Eberth)
えーべると
Karl Joseph Eberth
(1835―1926)
ドイツの解剖学・病理学者。チフス菌の発見者。ウュルツブルクに生まれ、ウュルツブルク大学を卒業。スイスのチューリヒ大学解剖学・病理学助教授となり、1869年教授に昇進。1874年チューリヒ獣医科大学の病理学・組織学・進化論教授。1881年からドイツのハレ大学の比較解剖学・組織学・進化論教授、1911年同大学名誉教授となった。1880年、腸チフス死体23例のうち、12例の脾臓(ひぞう)と腸間膜リンパ腺(せん)に特定の細菌を発見し、翌1881年同じ所見を確認して腸チフス病原菌として発表した。
[藤野恒三郎 2018年6月19日]
エーベルト(Max Ebert)
えーべると
Max Ebert
(1879―1929)
ドイツの考古学者。ベルリン大学で学び、ベルリン国立博物館、ケーニヒスベルク大学(現、イマヌエル・カント・バルト連邦大学)、リガ大学を経て、1927年にコッシナGustaf Kossina(1858―1931)の後任としてベルリン大学教授となる。バルト海沿岸地方などの先史時代を研究したが、もっとも大きな業績は『先史学大事典』(1924~1932)の編集・刊行事業で、全ヨーロッパの学者を動員したこの大事典は、以後の考古学研究の基礎を築くものであった。
[寺島孝一]