1830年代に始まったドイツの社会主義的ないし共産主義的運動と労働運動は,48年革命期に高揚したが,革命の挫折とともに抑圧され,マルクス,エンゲルス,ボルンStephan Bornなどの指導者は亡命を余儀なくされた。50年代末,政治活動が息を吹き返すと,再び各地に労働者教育協会が設立され始めた。その動きのなかから,63年5月,労働者の運動の自立を主張する全ドイツ労働者協会Allgemeiner Deutscher Arbeiterverein(ADAV)がラサールを会長として創立され,普通選挙の実現を第一の目標に掲げた。勢力の中心はプロイセン王国にあった。これに対抗して,自由主義者の影響下にあったグループが同年6月,ドイツ労働者協会連盟Verband Deutscher Arbeitervereine(VDAV)に結集し,労働者の福祉に取り組んだ。活動の舞台はおもにザクセン,南ドイツであり,そこでは反プロイセンという点で労働者と自由主義者の協力が成り立ったのである。しかしここでも労働者の自立の傾向が強まり,68年には,VDAVもADAVと同様,国際労働者協会(第一インターナショナル)の立場に支持を表明するに至った。
同年9月,社会主義者鎮圧法が失効すると,同党は党名をドイツ社会民主党と変え,ベーベル,ジンガーPaul Singer(1844-1911)を中心とする指導部を選び,翌91年には明確にマルクス主義に基づくエルフルト綱領を採択して,新たな合法活動に備えた。その後,さまざまな法的・社会的規制にもかかわらず,同党が大衆政党に成長していったことは,党員数が1905年に38万5000人,13年には108万5000人に伸びたことが示している。05年から始まった中央集権的な組織の整備とともに,12年には397の選挙区のすべてに党組織が存在するに至り,12年の帝国議会選挙では,得票率34.8%,議席397中110を獲得して第一党となった。中央機関紙の《フォアウェルツVorwärts(前進)》(1914年の予約購読者数16万)をはじめ,各地に機関紙があり(1913年には90の日刊紙),理論機関誌《ノイエ・ツァイトDie Neue Zeit(新時代)》(1883年創刊,1917年までカウツキーの編集)は1911年に発行部数1万を超えた。また,1890年に実質的に発足した〈自由労働組合Freie Gewerkschaften〉は,社会民主党と密接な関係を保ちつつ,中央集権的・産業別組織に成長し,1913年には250万人を擁するまでになった。国際的にも,同党は第二インターナショナルの主導的存在として重きをなした。
こうした組織と議席の伸張は,各地域の日常活動に支えられており,革命志向より改良実践の比重を増すことになった。とくに南ドイツでは,農民層の獲得や自由主義政党との協力の必要がフォルマルらによって主張され,自由労働組合も労働者の地位向上に成果をあげるにつれ改良主義に徹していった。1906年には組合が党と対等の発言権をもつに至り,同じころ,エーベルトのような社会主義者鎮圧法後の世代が要職につくとともに党組織の官僚化が進んだ。理論の次元でも,世紀の変り目ごろ,ベルンシュタインが漸進的社会主義を唱えて党是のマルクス主義に修正を加えようとした(修正主義)。彼の主張は,カウツキーやローザ・ルクセンブルクの反批判を招き(修正主義論争),1903年の党大会で否定された。しかし,10年,革命運動の活性化を目ざしてルクセンブルクらが大衆ストライキを提唱すると,カウツキーらは〈中央派〉を形成し,左右両派に対してマルクス主義正統派たることを自認した。社会主義者鎮圧法の下での同党は社会から〈排除〉された存在だったが,その後,その日常活動は広く文化の領域に及び,一つの労働者の世界を作りあげた。しかし,議員内閣制を欠いたドイツ帝国の中で同党は社会的にもなお〈隔離〉された存在だった。しかも他方では国民国家の枠組みの中に統合されていたのであって,そのことは第1次世界大戦勃発という事態に至って明瞭に示された。同党はそれまでの反戦の旗を降ろして,政府支持に転じたのである。しかし,戦争の長期化に伴い生活条件が悪化するに及んで,戦争協力に対する批判が強まり,1917年4月,ハーゼ,カウツキーらの〈中央派〉を中心とする批判勢力は独立社会民主党Unabhängige Sozialdemokratische Partei Deutschlands(USPD)を創立し,多数派=改良主義者とたもとを分かった。ルクセンブルク,K.リープクネヒトらを指導者に非合法の反戦・革命運動を行っていたスパルタクス・グループもそれに参加した。