ザリエル朝(読み)ザリエルちょう(その他表記)Salier

改訂新版 世界大百科事典 「ザリエル朝」の意味・わかりやすい解説

ザリエル朝 (ザリエルちょう)
Salier

コンラート2世在位1024-39)にはじまる中世ドイツ王国2番目の王朝。1024-1125年。ハインリヒ3世(在位1039-56),ハインリヒ4世(在位1056-1106),ハインリヒ5世(在位1106-25)と直系相続により4代継続。この王朝がザリエル朝と呼ばれるのは12世紀初頭以降で,14世紀から一般に使われるようになった。フランケンの貴族出身であるため,フランケン朝Frankenとも呼ばれる。ザリエル家はザクセン朝のオットー1世の娘ロイトガルトの夫ロートリンゲン大公コンラート赤公に始まり,コンラート2世はその曾孫である。ザクセン朝断絶のあと,マインツ大司教アリボの支持により国王に選ばれた。

 ザリエル朝の統治は,叙任権闘争(1075-1122)を境に前期後期に分かれる。前期の政策は,教会勢力と結んで,大公権力の自立化を抑え,国家統一をはかる,前王朝の帝国教会政策を基本的に継承したものであり,特にハインリヒ3世は,修道院改革運動を保護,奨励し,教皇権の強化にも力を貸し教皇との提携のもとに神聖ローマ帝国の最盛期を実現した。だが教皇権の強化は,皇帝の保護から独立する動きを生み,叙任権闘争を惹起する遠因となった。さらにドイツにおける封建化の進展は,教会政策のみでは国家統一を保持しえない状況を生み,ザクセン朝は新たに帝国ミニステリアーレン政策を採用した。世俗諸侯に対抗するため,国王自身の直轄支配領域をつくり出し,皇帝直属のミニステリアーレ層を配置して,その管理・運営に当たらせるという方針であり,ハインリヒ4世は,まずザクセンでこの政策をとり,西南ドイツにもこれを及ぼそうとした。国内の貴族層はこれに反発し,まずザクセン貴族の反乱がおこり,西南ドイツの貴族層も教皇と結んで反皇帝的立場をとった。この国内情勢が,叙任権をめぐる皇帝と教皇の対立と合流して,ドイツは内乱状態に突入する。叙任権闘争はウォルムス協約(1122)により一応の収束をみたが,この間に,聖俗の諸侯たちは,各地に割拠してそれぞれの支配領域をつくりあげ,国内の封建化が著しく進展した。この状況に対し,いかにしてドイツの国家統一を維持できるかという,きわめて深刻な問題を,次のシュタウフェン朝に残したまま,ザリエル朝はハインリヒ5世の死をもって幕を閉じた。
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百科事典マイペディア 「ザリエル朝」の意味・わかりやすい解説

ザリエル朝【ザリエルちょう】

神聖ローマ帝国の皇帝位を占めた中世ドイツの王朝(1024年―1125年)。ザクセン朝の後をうけたザリエルSalier家のコンラート2世が始祖。フランケン朝とも。前半はポーランドを支配下におき,ブルグントを併合して王権伸張。しかし後半は叙任権闘争の結果ウォルムス協約(1122年)が成立,教会勢力を支柱とする帝国教会政策がくずれ,また地方分権化が強まった。1125年4代ハインリヒ5世がザクセン公ロタール2世に打倒され廃絶
→関連項目シュタウフェン朝ハインリヒ[3世]ハインリヒ[4世]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ザリエル朝」の意味・わかりやすい解説

ザリエル朝
ザリエルちょう
Salier; Salian Dynasty

ザクセン朝最後の王ハインリヒ2世 (聖王) が嗣子なくして没したのち,1024~1125年まで続いたドイツ国王 (神聖ローマ皇帝) の王朝。フランケン公コンラート2世 (在位 1024~39) を始祖とするので,フランケン朝とも呼ばれる。ザリエルとはフランク族中の有力部族サリ族のこと。ザリエル朝時代は世俗化した教会の改革時代でもあり,当初ザリエル朝のハインリヒ3世 (在位 39~56) みずからが教会改革の必要性を信じていたほどであったが,その子ハインリヒ4世 (在位 56~1106) の時代になると神聖ローマ皇帝とローマ教皇との間に有名な叙任権論争が発生するにいたった。ハインリヒ4世は教皇グレゴリウス7世から破門され,カノッサ城 (→カノッサの屈辱 ) で破門を解除された。ザリエル朝の名を史上に高からしめているのはこの叙任権論争である。ザリエル朝最後の皇帝ハインリヒ5世 (在位 06~25) は 1122年ウォルムス政教条約を結び皇帝と教皇の間に一時的な勢力均衡をもたらしたが,ハインリヒ5世が没するとドイツはもはやヨーロッパにおける最大の政治的勢力ではなくなっていた。ザリエル朝時代は文化史的には盛期ロマネスクの時代にあたり,シュパイエル,ウォルムス,マインツの教会にその遺産が伝えられている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ザリエル朝」の意味・わかりやすい解説

ザリエル朝
ざりえるちょう
Salier ドイツ語

ザクセン朝に続く中世ドイツ王国2代目の王朝(1024~1125)。前王朝の断絶後、コンラート2世が国王に選ばれて創始した。その家門はフランケンのシュパイエル伯であったので、フランケン朝ともよばれる。コンラート2世ののち、ハインリヒ3世、4世、5世と直系で相続され、いずれも神聖ローマ皇帝を兼ねた。聖職叙任権闘争に至るまでの前半は、前王朝以降の帝国教会政策を継承し、コンラート2世はブルグント国王ルドルフ3世の死後その国王をも兼ね、ハインリヒ3世は、クリュニー修道院に始まる教会改革運動を支持して、ローマ教皇の権威の強化にも力を尽くし、神聖ローマ帝国の最盛期を実現した。だが教皇権の強化は、皇帝権との対立を招き、ハインリヒ4世のとき、聖職者の叙任権をめぐる両者の紛争に発展、国内有力諸侯の反抗とも結び付いて、ドイツは内乱状態に陥った。ハインリヒ5世は1122年ウォルムス協約を結んで叙任権闘争を終結させたが、帝国教会政策の基本をなした、皇帝=国王の高級聖職者に対する支配権は大幅に後退し、司教は世俗諸侯とともに強大な地方権力として自立化の道を歩み始めた。ハインリヒ5世が1125年子なくして死んだのち、ハインリヒ4世の孫にあたるシュタウフェン家のコンラート3世によって、ホーエンシュタウフェン朝が新たに開かれた。

[平城照介]


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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ザリエル朝」の解説

ザリエル朝(ザリエルちょう)
Salier

1024~1125

ザクセン朝の断絶を承け,4代にわたりドイツ王=神聖ローマ皇帝位を占めた王朝。初代コンラート2世フランケン公国シュパイエル伯ハインリヒの子だったのでフランケン朝ともいう。その前半期は王権が伸張し帝国の声望も高まったが,後半期に至り叙任権闘争ヴォルムス協約の結果,帝国教会政策は解体して地方分権的傾向が表面化した。

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世界大百科事典(旧版)内のザリエル朝の言及

【オットー美術】より

…時代は,カロリング王朝分裂後にドイツの政治的統一を完成したザクセン朝(919‐1024)にほぼ重なるが,同朝の3人のオットー帝(1~3世)治下で美術が著しい発展を見せたため,こう呼ばれる。この美術は次のザリエル朝の創始者および2代皇帝の時代にも継承された。オットー美術の源泉としては次の三つが挙げられる。…

【フランケン】より

…在地豪族の力が伸び,911年カロリング家が断絶するとフランク部族大公コンラート1世が国王に選ばれたが,オットー1世の封建的臣従の要求に従わなかったため部族大公領は国王の直轄に編入された。11世紀にザリエル家のシュパイヤー伯コンラートはフランケン公を称し,ザクセン朝のハインリヒ2世の死後の1024年,ドイツ国王コンラート2世となり,フランケン朝(ザリエル朝)を興した。ドイツ国王,神聖ローマ皇帝の王家としてのザリエル家は,1125年ザクセン公ロタール2世に倒されるまで,ハインリヒ3世,4世,5世と4代続いた。…

※「ザリエル朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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